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言語の壁は別に越えなくてもいい

よ。

国際化する世の中に伴ってやはり語学力は重視されるものである。学生もキャリアの為に英語+αを常々勉強しているこの頃。キャリア面以外でも、幅広い人生経験は幅広いフィールドを持つ者ほど手に入りやすいものだ。
それはそうだ。ごもっともである。

ただ、そういった教育によって言語の壁とはしばしば「越えるもの」という観念を一辺倒に植え付けられているように思われる。だいたい越えられた方が偉いとされている。

…よね?そういう前提で話すけど合ってます?生ぬるい高校しか出ていないので社会一般と認識が一致しているのかどうかいつも自信がない。初っ端から偉そうな口きいてるけど本当に大丈夫?間違ってたら今この時点で申し出てください?極力不要な恥はかきたくないので。いいですか?本当にいいですね?

いいとしても、なんか、疲れないのだろうか?勉強ってさあ、疲れないのか?日本語とかいう特殊すぎる言語を母国語としてしまったが故に全然文法的に共通点が見出せない世界共通言語とか勉強して、君は疲れないのか?というか疲れてるね。だって疲れた顔でこんなページを見ているのだからそれは疲れているのだと思うよ。

というわけで疲れている方に、これから多少の文字数をお借りして「言語の壁に阻まれた空間」をおすすめしたいと思う。なあ、本当に書き出しってこれでいいのか?

まず、言語というものは情報伝達手段なのだから、当然常に情報を含んでいる。そして、よほど病的でない限り無意識の反応であると思うが、情報は脳への負荷である。さらに、情報は世界の隅々にまで張り巡らされていて、知らずとも我々はそれを拾得しては蓄積している。そうして脳は半永続的に疲労を負いつづけ、あなたはそのようなしなびた顔になる。

しかし、逆に言語が情報のマスク的役割に転換することがある。そしてその言語が理解できないコードであるならば、我々はその情報を受容することができない。裏を返せば、不要な情報(=脳への負荷)をブロックすることができるのだ。そうして脳のストレージに余裕ができることで、精神的安寧を得ることが可能となるのである。

特に良いと思う具体例は「マジのインド(ネパールである場合が多い)人が経営しているインド料理屋」である。インド人店員が我々のシナプスに接触するのは基本、「イラッシャイマセ」「ラッシードウゾ」「カレーノ辛サ選ベマス」「カシコマリマシタ」「〇〇円デス」「アリガトゴザイマシタ」の6点である。それ以外の、他スタッフと話す内容などは、(英語と中国語のみ解す自分にとっては)対応していない拡張子の言語によって隠されている。それがパーテーションに姿を変え、目の前のインドカレーの味以外の情報を遮断する。それ故に、あの深いスパイスの香りや味わいが脳の隙間に入り込んでくる。店内で喫食している時間は合わせて1時間にも満たないほどだが、必要最低限の情報であった故に濃密な体験をしたような実感が得られるのである。

他にも、自分以外の日本人が投稿者やコメント欄の中にいないYouTubeチャンネルを観ることもおすすめできる。理解できる情報は画面に映っているコンテンツと、「よくわからないけどなんか楽しそう」という雰囲気だけである。逆に言えば、それはYouTubeのエンターテインメントにおいて必要最低限の要素である。それ以外からは自分は言語のバリアによって守られている。故に安心して鑑賞できるというわけである。

普段言語の壁を越えるための学習に勤しんでいる方々も、たまには世間のプレッシャーを一旦置いといて「敢えて越えない」という日を設けてみると、安寧でかつ印象的な体験を案外得られることもあるかもしれない。

忙しいから要約してほしい?いいだろう。つまりはだな。

現地の人が経営しているコテコテのインドカレー屋はいいぞ。


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