コミュ障から普通になりたい
コミュ障という言葉が普及していますが、コミュニケーションってそもそも何なのでしょう。
生活していて、それってどういうことなのか、表面的にはなんとか分かっていても、どういう意味なのか、意図があるのか、目的があるのかが分からなくて困っていました。
もう良い年なのに、社会で周囲の人との関わりに生きづらさを感じていました。
慢性的にずっと続いていることは、だんだんその状態が当たり前になっていきます。それから、解消された時にやっと、これまでの状態が辛かったのだと自覚することがこれまで多かったです。
コミュニケーションは、相手の言っていることの意味が本当の意味で分かること、また、自分の伝えたいことが齟齬が小さく伝わるような交流のことだと思います。
伝わっているか、伝わっていないのか、お互いに確認するすり合わせるです。
時にはかなりエネルギーが必要な場合もあります。業界の違いや、家のことや、地域の違いなど、にた境遇の方であったり、共通する事柄があるとそこから親しみや、共感する一面が出てきてくれるので、会話がスムーズになることがあります。
この時、共感できることを一緒に共有する姿勢を持てることで、円滑になります。
私は、コミュニケーションがとても苦手です。小学校で3回学校が変わったこと、馴染めない時に親に叱り飛ばされて寄り添ってもらえなかったことで、精神的に孤独になってしまったことが大きなきっかけでした。
学校という共通点があっても、合う・合わないもあります。これは、自分でどうにかできるものでもなくって、タイミングや、運もあります。
自分の好きなことであったり、誰かの好きなことに興味・関心を能動的に向けられると、仲良くなることができる場合があります。
前提として、無理してやる必要がないということは注意です。
私は、絵を描くことが好きでしたが、他に上手い人がいると、自分の絵がみっともなく見えてしまって、そう見えてしまうともう訂正ができなくて、人前で見せることが怖くなりました。違う子の方が上手いじゃん。だからお前の絵は上手くない。と言われることで否定されることが嫌でたまらなかったのです。
それから、隠すようになって、好きなコミュニティに属することから逃げました。
自分の捉え方を見直す機会を持てると、違ったと思います。
物事は、自分で乗り越えることで、次につながります。
けれど、自分で乗り越える、ということはひとりぼっちで全てを解決する、ということとは違います。
これを理解することに20年もかかりました。
誰かに代わりにやってもらうことは、自分で乗り越えることではありません。そうではなくて、取り組むのは自分だけれど、分からないことを一緒に考えてもらったり、誰かに質問したり、話を聞いてもらったりと助けてもらうこと、また誰かが困っていることには自分のできることで返したり、ということをしても良いのです。
自分にできることなんてないよ、と思っていましたが、話を聞くこと、相談に乗ること、一緒に考えること、一緒に悩むこと、調べること、知っていることを伝えること、そういうことはできることです。大きな立派なこと。秀でた芸事ができないと意味がないのでは、と思っていましたが、一見地味なことを積み重ねていくこともできることとして大切なことだと理解しました。まさに灯台下暗し状態でした。
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