ヴェニスに死す・感想

5月15日
 前日、『ヴェニスに死す』をみたので感じたことを残しておこうと思います。
モデルの少年が世界一美しい少年として有名だったこと、漫画でもモデルになったりと有名なことを知っている位の知識だった。それから、授業で美についての話の中で少し紹介されていたため、気になって見たのでした。
映画は1971年のものでした。ちなみに、カラーです。
 主人公は気難しい作曲家、指揮者の方はおじさんでした。年齢はわからないけれど50代から60代くらいの方に見えました。心臓が強くないため、療養のためにヴェニスに訪れます。ホテルでも貴族のような身分の高い方がドレスを着て、観光し、何泊もホテルに滞在していました。軽井沢みたいなものなのでしょうか。
作曲に関して、同僚の方と話をします。美についてです。完璧な美は生まれついた天性のものであって、努力でどうにかなるものじゃないと同僚が話します。主人公は努力でどうにか追い求めることができる、生み出すことができるのだと話します。「お前の音楽は根底に平凡があってつまらない」と言われます。高いレベルの芸術(この映画の場合は音楽でした)を求める中での対話だったのだろうと思います。海外の映画だと結構論争するようなシーンは多いよに感じます。それから、夕食の際に少年を見かけます。
目を惹かれてしまい、離せなくなるような存在の少年です。
少年とこの主人公は決して会話を交わしたりすることはありません。ただ、象徴としての美を現実に具現化したような実在の少年として主人公の前に現れたのでした。
教養が私自身ないので、映画で流れる音楽のクラシックのタイトルや、それが何を暗喩しているのかわからず、映画を見てから調べることとなりました。

 最近は映画を見てもすぐに理解することは到底できず、特に考える余地を残すものに関してはわかる部分をネットで調べることが多いのですが、映画をみて自分が感じたこととと、調べて理解を深めていったことで解釈できたことは分けたいな、と思います。

 黒澤明監督の『生きる』を見た時は、日本の映画だったので、特に追加で調べるようなことはなかったのですが、あれは先に宮崎駿監督の本の中で監督の感想を先に読んでしまっていた部分がありました。
本来、映画は予備知識がない方が良いな、と思っています。

映画を見て、よくわからない余地を残す感想として言葉にできない部分を含められている映画は分からなくても、好きなので、自分自身の経験や年齢が重なったときにまた見たいと思える大事な映画の一つとなりました。

話は戻ります。
 疫病が流行するヴェニスでは、主人公は療養のために訪れたけれど、ヴェニスで疫病に罹ります。最初に乗った船乗りは無免許の方だったり、海水浴場でイチゴを売っている売り子からイチゴを買って食べたりします。観光事業で成り立っているヴェニスでは街中を消毒しており、ひどい匂いを放っているけれど、ホテルの方も、夜の食事の場で音楽を弾くことでチップで生活する市民の方にも聞いても教えてはくれません。国で隠蔽すること、口にして観光客が離れてしまうことを防いでいます。銀行で親切な高齢の職員の方が丁寧に疫病が流行っていること、2、3日で交通が麻痺して帰れなくなること、病院には空き病床はすでにもうないこと、今すぐに帰った方が良いことを伝えます。
 実は、ホテルに来てわずか数日で一度主人公は季節風の暑さに耐えきれず帰ろうとします。その際、荷物が別の場所に誤って送られてしまったことで荷物を後から輸送し、身一つで先に船に乗って帰ることの選択を迫られます。主人公は荷物が戻ってくるまではヴェニスから離れない、と告げホテルに戻って来ていました。戻る際、船の待合場では病人が1人倒れています。が、誰も気にしませんし、手を貸すこともしません。主人公は気になりますが、病の貧民に何かするわけではなく、ただおろおろとしたのち、それからは不安でこの街に起きている不穏なことを気にするようになります。
 美の少年一家は疫病のことは知るはずもなく、のんびりとヴェニスでの滞在を楽しんでいます。
 主人公は船乗り場からホテルに帰るまでの小舟に乗りながら、それまで見せたことのない開放されたような、嬉しさを滲み出すような嬉しそうで穏やかな表情を見せます。
少年をまた見ることができることに心が躍る様子だと感じました。
それから、戻ってきたホテルの窓を開けて、砂浜で歩いている少年の姿を見て、ほっと安心したようでした。
高潔であることと、美を追い求める中で表現することに欲は必要不可欠だ、と同僚は言います。家庭もあり、同性愛者でもない主人公ですが、これまで感じたことのない少年の美を前にして、口から「愛している」とこぼします。それは独り言であって、少年の耳に届くわけではありませんし、つい心からふと出てしまった言葉です。
ヴェニスに戻ってきて、穏やかに浜辺で少年を見る時間をもてた時、主人公は作曲の作業に活力的に取り組みます。一番幸せな時間を持てたように感じました。
それから、疫病のことを教えてもらい、ヴェニスが危険な場所であることを知った主人公は少年一家のまとめ役母親に伝えます。ここから早く立ち去りなさい、ここは疫病が蔓延していて危険だと。
主人公自身もどうするか、どうしたらいいのか悩みます。ここから立ち去るのか、立ち去ったら永遠に美の少年を見ることはできなくなります。失われてしまいます。
別の日、主人公はまだヴェニスに残っています。白髪も目立つようになっている主人公は理容室で白髪染め、髭も黒く染めてもらい、顔は白く、口紅も差し、メイクを施され「これで若く見えます」と理容師から仕上がった様子を口をあげて笑顔を作ってみて、主人公は少年に気持ちを伝えようとします。
少年は時折家族から遅れて歩き、1人になる時間があります。一家の後を追いかけ、白いスーツと帽子、胸ポケットには花を刺しています。少年だけとの2人の時間をどうにか持ちたいが、一家は疫病の話をした厄介者の不審者のように主人公を扱います。特に少年が一家から離れることがないように、しきりに呼び戻します。
もしかしたら、疫病のこともあるけれど、バカンスに現れた主人公が厄介で一家からは邪険な存在として見られたことで一家はヴェニスを離れる決意をしたのかもしれないな、と思いました。子供が4人もいる中で、少年を執拗に見て、近づいてくるおじさんは母親からしたら怖い存在に映っている可能性が高いです。 
 それから、ヴェニスの街はもうすでに疫病が蔓延しており、綺麗な街並みを白い消毒液でびしょびしょに消毒していた街並みから変わり、街のあちらこちらが燃えた後の焼き跡のすすまみれとなっています。ヴェニスから離れることは手遅れになっています。そんな中で少年に思いを告げたいと後を追う主人公は、対比するように真っ白のスーツに、真っ白の帽子、花までポケットに差しており、化粧まで施しています。ヴェニスから逃げることもできず、少年の美に夢中になるあまり、主人公は疫病や自分の命よりも、美と少しても共にあれる時間を持つことを選んだのです。
 結局、心臓が痛くなろうとも、あんなに嫌な暑さで汗をかこうとも、主人公は少年に思いを告げることはできず、最終的に、汚れた街の汚い床に座り込み、力無く笑います。泣き笑いのようでした。その時、主人公は痛いほど理解させられたのだと思います。こんなことをしても、何にもならないこと、見るだけで、一瞬触れることができただけで、それ以上を得ることはできないのだと。
 
 その日の夜、夢の中で、劇場で主人公は指揮をし、オーケストラで音楽を演奏します。しかし、同僚から「君の音楽は平凡から開放された、完璧を追求し演奏した。だけど、楽屋に溢れんばかりに駆けつける民衆に淘汰されておしまいだ、君の音楽は高貴なものではなく、結局は官能や、美に憧れ、手に入れることができないまま終わるのだ。」と言われる悪夢にうなされるようになります。告白しても自分のものになるわけでもなく、美は生まれそなってあるもので努力でどうにかできるものではない、という同僚の言葉の呪いに囚われ、実感せざるを得ない状況に追い詰められています。ただ自分で自覚した、というわけであって本当に言われたわけではないのかな、と感じました。
 翌日、主人公は少年一家が昼すぎにはヴェニスを離れることを知ります。少年の荷物に一瞬、告白のための花を置き残そうか迷いますが、やめます。海水浴をしている少年を、直接、自分の目で最後に一目見ようと、心臓を痛くし、ふらふらとした足取りで浜辺の椅子に座ります。叶わないけれど、追い求めることを諦めることもできず、格好はやはり昨日と同じ白いスーツにポケットには花を差しています。
 浜辺では女性が独唱しています。そんな中、主人公の目の前で少年同士の喧嘩をし、ハラハラとする主人公は、少年を助けにいくこともできません。起き上がるのもやっととなっているのです。1人になった少年は、日が傾いていく海辺に1人奥の方へ歩いて行きます。後ろ姿を眺め、風景とも一致する素晴らしい美を目の前にして、少年は後ろ姿のままどこかを示すポーズをとります。
圧倒された主人公は、暑さと汗で白髪染めやメイクが溶けて汚れた状態で、息絶えます。告白のための化粧は、死化粧となります。
一瞬の美で、手に入らないものというのは自分の生活の中でも感じることはあります。
例えば、最初の一回きりにしか表現できないからこその俳優さんの良さ、であったり、芸人さんの若い頃のその時にしか出せない面白さを、年を重ね、経験を積み重ねた中で再現することはできません。新たな形として表現されるようになります。幼少期の純粋さ、美しさも成長する中で失われていく部分があります。
今この時にだから存在する美しさは、その時は一瞬のようであり、失われていくものです。
また、平凡な自分が憧れるようなものは自分のものにすることはできないのです。写真に残しても、記憶も、その時の生の体験には劣ります。
今回、映画という媒体で表現されているので、何年経っても見ることができるため再体験することができるので、わかりにくい部分はありますが、現実には再体験できない一回きりのものがあるのです。顔の良さの美がわかりやすく映画では少年として表現にされていますが、決して見た目だけの話ではなかったように思います。彫刻のような美の具現的な存在の少年は、形を変えて普段は見えにくい形で社会の中には存在します。
わかりやすい形として少年が現れたのかな、と思いました。
 また、一家にとっては少年は家族の一員でその美を気にかけたりすることはないです。追い求める人によって、見出される美のあり方は様々でもあり、気づかない場合もあるということのようにと感じました。
『ブラックスワン』という映画でも、バレリーナが完璧な表現を追い求めていく中で、精神的に内側から追い詰められ、自分の理性と離れていく中で得ていく表現があり、最終的に完璧と引き換えに自分を失います。表現の追求と、人間の存在を象徴するような映画でした。
どこまで理解できたか、解釈としては不確実な部分もあると思いますが、素晴らしい映画を見る経験ができてよかったです。

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