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小説 開運三浪生活 67/88「受験ネーム・太田興大」

連休最終日の日曜は、川相塾のマーク模試だった。今年初めての模試である。受験準備を再開させてからまだ日は浅かったが、現時点での実力を測るにはちょうどいいタイミングだった。この年の川相塾は、センター試験を想定したマーク式の模試を四回、記述式の模試を三回予定していた。文生は去年と同様、今年も川相塾以外の模試は受けないことにした。頻繁に受験できる金もなかったし、川相塾の模試さえ受けておけば充分との認識からだった。

文生は朝から試験会場の岩手第一ゼミナールにいた。盛岡駅から開運橋を渡って右手に入っていった先の、人通りの少ないエリアにその予備校はあった。

――なんか、変な感じだな。

岩手第一ゼミナールの生徒はほかの教室で受験しているのか、五十人は入ると思われる教室の四割くらいしか席が埋まっておらず、文生は少し拍子抜けした。その割に、席と席の間には緊張した空気が流れていた。模試とはいえ、試験会場と名の付く場所は三月の後期入試以来である。答案用紙が配られた。文生は氏名欄に鉛筆で文字を刻み込んだ。

太田興大

オオタコウダイ。偽名だった。文生の三つ年下の弟、武登はちょうど高校三年生なので、同じ模試を受けているかもしれなかった。仮に文生が高得点を取って成績優秀者欄に載ってしまった場合、浪人していることが地元にバレてしまう。それを文生は怖れたのだった。裏を返せば、そんな分不相応の心配をしてしまうくらい自信があった。

苗字の「太田」は、広島市内を流れる太田川から取った。初め、志望校である広大をコウダイと読ませて下の名前にしようと考えたが、あまりに芸がないので文生が好きな「興」の字を採用して「興大」とした。

出身校欄には「立教館」という架空の公立高校をでっちあげて記入した。江戸時代に文生の地元にあった藩校の名称である。卒業した高校の前身と言えなくもなかったし、全国に点在する〇〇館という校名は、歴史の重みが感じられて、文生の憧れだった。以後、田崎文生は立教館高校卒業生・太田興大として模試を受け続けることになる。

試験のほうは、どの科目も面白いようにスラスラと解けた。どの問題にも手応えがあった。高校入学からの五年間で初めてのことだった。すべての科目を終えて試験場をあとにするとき、文生こと太田興大はいつにない昂奮のなかにいた。

――なんだかんだ成長してたんだな、俺。

文生のなかで、川相塾広島校の英語講師、中本の言葉が思い出された。

「いいかおまえら、わしが『さすが浪人生』言う時はな、二つ意味があるんよ。『こんなこともわからんのか。さすが浪人するだけあるの』いう意味と、『こんな難しい問題が解けるんか。さすが浪人生じゃ』いう意味。どうせなら、二つ目を言わせるようにならにゃ」

今の俺は二つ目だな――。すでに陽が落ちた盛岡の街を、文生は珍しく自信に満ちた足取りで歩んだ。

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