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小説 開運三浪生活 57/88「自意識過剰」

広島の穏やかな秋がさらに深まってきた十一月のある日、マーク模試と記述模試の結果が同時に返ってきた。いずれも前月に受けたものだった。

マーク式は、英語国語地理が快調で800満点中587点でC判定。苦手な数学化学の上積み次第では、広大が手の届く距離に見えたかに思われた。だが、記述式が芳しくなかった。D判定。数学も化学も同程度に低かった。文生は改めて、道のりの果てしなさを痛感した。普段机に向かっている時に感じている焦りがそのまま数字に表れた格好だった。もう二浪の秋だというのに、この体たらくであった。

模試の結果は昼休みに、塾の1階にある受付で受け取った。三限の講義のために4階に上がると、なんとなく廊下がざわついている。この時期に二つの模試が同時に返ってきたインパクトは、ほかの受験生にとってもさすがに大きかったようだった。

化学実験がない今、会話を交わすほどの知遇もない文生は、いそいそと次の講義が行われる部屋に入ろうとした。瞬間、だだっ広い廊下を挟んで向かいの講義室に何の気なしに目を向けた視界の隅に、おそらく模試の結果を話し合っているのか、キャピキャピと盛り上がっている女子たちが入ってきた。

そのなかに、丸本なるみがいたのである。

文生は反射的に視線を外し、やっぱり気になって再び的に焦点を当てると、意外にも先方は明るい表情で、片方の手の白い指たちをしきりにはためかせている。

(…………?)

その手は“ねえねえちょっと聞いてよ!”を意味しているようにも見えたが、化学実験で同じテーブルだったわりに面と向かっての会話を一度もしてこなかった自分相手に、あのような可愛い女子がしかも今さらコミュニケーションを求めてくるはずがなかった。きっと俺の後ろに彼女の友人でもいて、そっちに手を振っているのだろう――。脳内で結論づけた文生は、再び丸本に顔を向けることなくそそくさと、しかし平静を装ったつもりで講義室に入っていった。

 
その夜、文生は慚愧に堪えられなかった。丸本なるみを今後廊下で見かけたとしてもあまりにもバツが悪いし、顔を認めただけでおどおどしてしまう自信があった。

よしんばその日の丸本との邂逅をものにできたとしても、恋焦がれた本人を前に赤面硬直してどもりまくるか、あるいは正反対に頬の弛緩と鼻下の伸展をこらえきれずだらしないにやけ顔で応えるか、いずれにしても不快感と不信感を先方に与えるのは間違いなかろうと思われた。
 
 
それから一週間が経ってさすがに後悔のほとぼりも冷めたある日、夕方の講義を終えた文生は突然倦怠を覚え、自習室には寄らずにまっすぐ帰宅した。普段、元気溌剌からは程遠くいつも青白い顔をしている反面、幼少期から熱も滅多に出さないほどの健康体の文生にしては珍しかった。
 
——今夜はちょっと、勉強は無理だな……。
 
なぜか左の脇腹辺が無性に痒くなって、ひたすらボリボリと掻いた。見てみると、臍からわき腹にかけての一帯が薄く赤く変色して湿疹めいたものが出来ている。まさかこれが倦怠の原因とは思えなかったが、とにかく痒かった。
 
薄暗い四畳半で、情けない気持ちになりながら文生は万年床に横たわった。畳と畳の隙間からちょこちょこ這い出てくる若いゴキブリを、普段なら即鎮圧に移るのに、この日はただぼーっと眺めるほかなかった。そして左脇腹を幾度となくボリボリと掻きむしった。

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