THE FIRST SLAM DUNK

「映画のようなアニメ作品」は年々増えてきているとかんじるが、そこへじっさいに映画らしさを知覚できるものはそこまで多くない。たとえば先ごろの新海誠監督『すずめの戸締まり』などはどこまでもアニメの領分にとどまる作品だったとおもう。ロードムービー調の道中場面や写実的な風景の採択にはたしかに映画と類似する側面があるが、最終的には自己閉塞に終始してしまう点はあまり映画らしくないとかんじる(すくなくともサダイジンの憑依ではぐらかされた、あの叔母への仕打ちはあんまりだろう――身近な他者にも向きあえない作品が震災に向きあえるわけがないとおもう)。逆に今年はじめの比較的こぢんまりとしたアニメ映画『ブルーサーマル』などのほうが、画面の写実性などは欠いていても、より映画を観たときにちかい感触が得られたような気がする。現在放映中のテレビアニメ『チェンソーマン』などはどうだろう。もちろんアニメと映画に優劣があるわけではないが、けっきょくのところ映画の映画らしさとはどういった部分にやどるのか、映画のような表現は、アニメ作品にどのような表現の可能性や制約をもたらすのか、アニメ作品もまた映画たりうるのか――実写映画のほうもまた「アニメ化」いちじるしい昨今において、そのようなことを念頭に作品を鑑賞する機会がいくぶん増えた。

井上雄彦原作・監督・脚本のアニメ映画『THE FIRST SLAM DUNK』が、この映画性の謎を解き明かすヒントにみちていた。とうぜんそれは、この作品がきわめて「映画的」だったということを意味する。バスケ漫画の金字塔としての原作についてはもはや言葉を尽くす必要もないだろうが、今回の映像化もまた「映画として」文句なしの傑作だった。

この作品のなにが映画然としていたか。第一に、桜木花道が主人公だった原作および旧アニメから、宮城リョータを主人公に置き換えた物語への、いわば語り変え=「編集」が介在していること。ふつう実写映画では、現実に存在する人やものや風景を撮影し、その素材を切り貼りしてひとつの筋をもった物語へと変成していく、その「編集」がおりなす中途過程が不可欠になるはず。これをもって映画は映画に特有の呼吸を手に入れる。ことアニメ作品では撮影された現実に存在するものの生々しい即物的な感触が得られないぶん、後者の編集のウエイトが大きくなるのは必定といえるだろう。その点がまず、本作では原作者自身の手による、卓抜な原作要素の刈り込みによって難なくクリアされている。

とりわけ回想をもちいた語りへの意識には井上の豊富な映画的教養もうかがわれた。映画冒頭、少年期のリョータが地元・沖縄で兄ソータと1on1の練習をしている折、ソータが拳を突き出した瞬間、だしぬけにセリフを極力削ぎ落したみじかい回想群が挿入される。父が物故したらしく、悲嘆に暮れている母親。その背中へ寄り添う兄。後方ではそのふたりのすがたを、弟と、まだ幼い妹が見遣っている。だが気丈とみえた兄も、人知れず涙をながしていた――それらの画が間歇したのち、ふっと時間が戻り、ソータの拳をリョータが受けるアクションへと接ぎ木される。ここで本作の編集がもつ、居合いの達人がもつ間合いのような「呼吸」がまず、そくざに了解される。

そうして沖に出るソータを見送るリョータの画から一気に時制が飛び、現在の試合場面=山王戦へと接続される。この試合の中途にいましがたみたような回想が適宜間歇し、いまコートの上に立っているかれらがいったい何者なのか、どのような「物語」を背負ってそこにいるのかが、試合のボルテージの高まりとともに徐々にあきらかになっていく。丸々一試合を腰を据えてえがきだしつつ、キャラクターの掘り下げも同時並行でなされる――この「過去がだんだん現在に追いついていく」語りが、後半に大きくリードをとられた湘北が、山王に追いつき、追い越せるか否かの手に汗握るサスペンスとも呼応しているのだ。試合終了のブザーが鳴る瀬戸際までつづく決死の攻防は、映画でいう「ラスト・ミニッツ・レスキュー」(物語映画の父祖たるD・W・グリフィスがこの手法を発想・大成させた歴史的事実も周知のとおり)にちかいものだともいえるが、その最終局面では文字どおり「時間が伸縮する」、だれしも息をのまざるをえない新奇な演出までもが付随する。ここでも旧いもの=過去と新しいもの=現在が交錯をみせているといえるだろうか。

くわえて試合のえがかれ方そのものが新奇だ。じっさいのプレイを撮影し、モーションキャプチャでCGに起こしたらしい試合シークエンスは、とうぜんだが従来のスポーツアニメとはうごきの密度や情報量が決定的にちがう。テクニカルなドリブルでボールをキープしつつ、敵のブロッキングを避け、次の一手をさだめるべく四方に意識を凝らす――こうした「うごきつづける細部」が画面のあちこちでひしめく映像は、手描きのアニメーションではそうそうお目にかかれないたぐいのものだ。むろん「撮影」が媒介し、カメラムーブメントが付随する点でも作品のルックは実写映画に寄っていく。

だが、だからといってそれはたんなる写実性だけに終始するものでもない。パスやシュートといった決定的な「瞬間」を適宜つまみあげ、ひとつの筋へと切り詰めながら収斂させる「映像の運動」も、作品はきちんと拾いあげ画面定着させていく(この運動神経が、椅子/人物の別をつけず大半をフルショットで処理してしまう『すずめの戸締まり』のチェイスシーンには欠けていたものだ)。そこへときに時間を引き延ばし、あるいは切りおとしながら、時間を自在に彫刻し、エモーションへと変えていく処理が適宜くわえられる。こうした「嘘のつき方」がどこまでも映画的なのだ。しかもそれらはすべてがめまぐるしく、「はやい」。だから画面上のうごきそのものが状況理解に先立って昂奮をもたらす――つまり「物語を視覚が追い越してしまう」――惑乱までもが起こるのだった。

(CGの質感などにはまだ改良の余地はありそうだが――そうして運動の瞬間に「しなる」肉体の躍動的な表現などは、まだまだ手描きアニメのほうに軍配があがるが――、CG処理されたコート上のプレイヤーと、手描きでえがかれた回想中の人物や試合オーディエンスが、異なる質感をもったままひとつの布置へと刺繍されていく「編集」の手つきにもまた、映画的といえよう「嘘のつき方」がありありとみてとれた。継ぎ目がはっきりみえるツギハギのほうが効果的な場合もままあるのだ。そうしてこの事態もまた、異なるふたつの時間がひとつの空間に同時並存し、たがいに追い越したり/追い越されたりする運動圏の問題に回収されるだろう)。

そう、ここまでくればもうわかるだろうが、本作の主題は「時間」そのものだ。より厳密にいえば、過去・現在・未来という固定された(物語の)時間と、刻々うごきつづける現在の(試合の)時間との、位相差の問題。それこそが「過去が現在を追い越していく」という、いっけん矛盾したような時間の運動を織りあげていくことになる。むろんそれは幼い頃に兄をうしなったリョータが、「いつのまにか兄を追い越していく」過程として、そうして追い抜かれた兄の記憶を、たしかにあった過去として受け入れられるようになるまでをえがく物語の大筋を、そっくり上からなぞるものだ。

往時のリョータは兄ソータをおのが身で反復しようとしていた。面をかぶり――つまり、「自分の顔を消し」――遺品のあふれる部屋の片隅に、雑誌に読みふける兄のすがたを幻視するリョータは、兄との決定的な才能の差を周囲から指摘されながらも、なお兄のようなプレーヤーになることを夢見ている。他方で兄の遺品を片付け、引越しを提案する母は、そのことで無理やりにでも彼の死を抑圧しようとしているふうにみえる(それでリョータからの反発を食らい、諍いの結果、飾っていた「写真が落ちて割れた」)。リョータのミニバスの試合を見に行った折、コートに立つ彼に兄ソータの幻影をかさねていた彼女は、そうして残された弟に兄のすがたを探してしまうじぶんに嫌気がさしているのかもしれない。だから母と息子は兄のすがたをなお追い、残された者にそれをかさねてしまう点でよく似ており(それは中一の頃の回想で出会う三井にたいしても発揮される)、ゆえにというべきか、膝をかかえてその場にうずくまる悲嘆の姿勢がいつもおなじだった。

リョータはソータにはなれない。彼に追いつこうといくらバイクのスピードをあげても、彼はかならず兄に「一拍おくれつづける」。それは兄と弟のあいだにある「三歳差」という決定的な時間の差としてある。だが現実の時間はいやおうなく進むから、兄の年齢は現実の弟により追い越されていきもする。この「とっくに追い越してるのに」「ずっと三歳差」(妹のセリフだ――そうして彼女の死んだ兄にたいする認識もまた、時間の進展とともに「偏差」をもっていくのにも注意)という、ふたつの時間差のあいだにも、またさらに差が横たわっている。だがその差のうちにこそ「現実の」宮城リョータはいる。彼の存在こそが刻々うごいてゆく「いま」なのだ。母もリョータ自身も、やがてそのことに気づいていく。

そのきっかけとなる作品終盤、母がソータの古いビデオ(この画面の「質感」がとりわけすばらしかった)をひとり鑑賞する場面からつづく一連が白眉だ。母はそこで、ビデオ=過去にふいにうつりこんだリョータ=現在のすがたをふと「拾いあげる」。そうして幻想と回想の入り混じる錯綜した語りのなかで、母はソータの似姿ではないリョータのすがたをみいだすにいたるのだ(それはミニバスの試合を見に行った折、ソータのすがたを「かさねてしまった」場面の「語りなおし」として表象される)。直後あきらかになる「現在時制の」母がとっていた行動、および試合が終わってのち迎えいれたリョータにたいし最初になされるアクションは、ともにいま眼前にいるリョータの実在をたしかめるためのものだろう。ようは存在論的ともいえる差異へのまなざしが、本作には一貫しているのだった。

時間はたえまなくうごく。永遠に埋まらない「三歳差」をかかえながらも、現実の時間では弟が兄をあっけなく追い越す(この決定的な瞬間が視覚化されたある幻想的な場面には、ことに泣かされた)。たとえばその差は「アニメ(ないし漫画)のキャラクターがもつ、永遠の時間」と、「現実および映画がもつ、うごきつづける時間」の差異にも似るかもしれない。ゆえに作品は「映画的な」編集による語りの妙=時間の操作をつうじ、かつてのキャラクターたちを(時間の残酷とともに)「うごきださせる」ことに注力していたのだ。その点、バンド名じたいが示唆的なThe Birthdayの楽曲とともに、井上雄彦の鉛筆画がそのまま「うごきだす」原作ファン感涙のオープニングからして、着地点はすでにまなざされていたともいえよう。

だから本作をかつての郷愁のもとに「消費」してはならないだろう。そんな身振りをたやすく跳ねのけられる強度をこの映画はもっている。前進することは、過去が過去になることを受け入れることだ。埋められない差を埋められないまま、過去を追い越していくことだ――そのことにつよく自覚的だからこそ、映画はあっけらかんとかつての主人公・花道を「魅力的な脇役」の位置へ押しやってみせたはず。かつての名台詞であれ、いま現在の物語を語るうえで必要とみえないものは、容赦なく後景に追いやる。その時間の残酷への意識も持ちあわせていたからこそ、この作品はなお映画然としているのだともいえよう。だからとうぜん目的は往時の回顧などにはない(そのことをすくなくない数のファンがなお誤解しているようにもおもえるが、それはそれだ。いずれにせよ時間はながれるのだから)。

よく知られた試合の結末についてはいまさら語るまでもないだろう。問題はむしろそれまでの過程にある「瞬間」を拾いあげていくその運動感覚、ひいては同様にしてつむがれていく語りの妙技にあり、それが本作のすべてだ。つまりそれは、「過去を過去と受け止めながら」「いま、現在進行形でうごいている」「瞬間」の連続としての「現在」への注視しつづける態度に集約される。この時間認識こそが、本作をアニメでありながら同時に映画たらしめている。だから、今作でもピックアップされたかつての主人公・花道による例の名ゼリフが、かつてとわずかな差異をもちながらも、なおもって有効たりえたのだろう――「俺は今なんだよ!!」

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