バビロンのデイライト(第1章の10) (連載最終回)
突如、「四十八時間」(すでに一時間が経過)という命の宣告を出され、「やべえ!」と発奮するかと思いきや、町田は小便を垂らし、何をなす気にもならなかった。
彼としても死ぬのは怖い。しかし、「死への回避」は仕事へのモチベーショントリガーにはなり得ない。同期の小田原君は勇ましかった。彼は自分の意志で産業スパイを試み、そして死んでいったのだから。それに引き換え、俺はなんて情けないのだろうか。仕事ができない、ただそれだけのために死んでしまうなんて。
町田はしばらく恐怖から小便を流し、そして涙を流した。これまでの人生を反芻すると、さして取るに足らない、しかし彼にとってはかけがえのない、自分だけの記憶が蘇ってくるのだった。死ぬというのは、どういう気持がするものなのだろうか?
人類にとって、唯一、ドライムス(そしてドライムスによる「夢」の吸引)だけが死の恐怖を取り除くことができる道具であった。当然、間もなく町田も、「夢」を吸引し、意識を混濁させることを選ぶだろう。そうすれば、もう自分の身体は自分ではコントロールできなくなり、意識だけが浮遊することになる。
町田には、二つの選択肢が残されている。
すなわち、商工会議所のおじさん連中の要求をかなえるか、あるいは、座して死を待つか。もしかすると、二つの選択肢の中には正解がないかもしれない。同じだけ愚かな選択肢だとして、それでも選ばなくてはいけないとしたら、君はどうする?
> 私が今から、「樹」の「根」の生やし方を教えてあげます。町田さん。
町田は、不意のドライムスへの着信に、驚いた。
> 私の頭のなかには「樹」がある。それを、あなたに転送して差し上げましょう。どうです?これが、第三の選択肢だとしたら。
> あなたは、名誉あるペガサス電機の社員として、どのような選択をするのか、みんなが見ています。いま、問われているのは、そして、会社のあり方が社員の働き方に表れているとするなら、株主の皆さまや、社会の皆さまの、ありとあらゆる目が、着目しているのは、そのようなことです。すなわち、あなたの選択、行動、それらが注目されています。
町田は戦慄した。
あなたはいったい、何を言っているのだろうか?そして、そもそも、あなたはいったい、誰なのだろうか?
> いったいこの人は、何を怖がっているのでしょう?
あんたは、もしかして、「一万人の女たち」の一人、なのだろうか?
> は!
> それがどうしたというのでしょう?どうせこのままじゃあ、あなたは、殺されてしまうんじゃないの?
ドライムスで「樹」の「根」を生やすなんて聞いたことがない。あり得るとすれば、震災時の「事故」をもう一度、発生させるしかない。とすれば、それは世界に対する重大犯罪であり、それをすることは、いま、大問題となっている「一万人の女たち」と、同様の、テロリストに、自分がなってしまうことを意味している。そんなことを自分ができるとは思えない。
> クソッタレのチビタレさん。あなたには、他に何のオプションも残されていないんですけど?何を迷うことがあるのかな?やはりダメな営業マンは思考の根本まで腐っているということなのねえ。
> 自分がこれから死んでしまうという時に、自分の命よりも、世間の基準を物差しにして勝手に限界を作ってしまうことが、どんなに愚かなことなのか、人に客観的に描写をされないと気が付かないのかしら。本当に馬鹿ねえ。私の言うことを聞いてみるか、このままオツムをグガンとやられるか、どちらかしかないのよ。
もし、第三の選択肢として、自分の命を救うことができるとすれば、確かにこの、謎の声の持ち主の言うことを聞くことしか、ないのかもしれない。たとえこれが、この一連の悪夢の続きだとしてもだ。
わかりました。「樹」を転送してください。しかし、もうダメだとわかったら、すぐに「夢」を吸います。なんだかんだ言ったって、死ぬのは怖い。リストラは怖い。死にたくないんです。
> は!
> よく決意なさったね。リストラ候補筆頭の、ダメな営業さん。なんて言っても、社長の命令だからね、よござんす、差し上げましょう。私の愛しい、大事な「樹」を、あなたに分けてあげましょう。
> 私も思っていたのよ。私の「樹」が、この世界に放たれて、すくすくと大きくなる様を見てみたい、などということを。ふふ。さ、私の「樹」が、私からあなたへ転送される、ほんの一瞬が勝負。合図をするから、そうしたら、〇・五秒後に、ドライムスをつなげてごらんなさい。
こうして、とうとう町田は、行動を起こした。彼がこの世界から永久不在になるタイムリミットまで、あと約四十五時間、となったところであった。
(第1章 終)
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