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コメントはしてこないけど「いいね」を押してくれる存在を大事にしたい今日この頃

最近、ありがたいことにyoutubeにアップした曲がそれなりに聴かれるようになった(この記事を書いている中での最新曲を掲載しておこう)。

曲をアップすると、概して1件〜3件ほどのコメントがつく。いつもありがとうございます。感謝感謝の極みでございます。私は今、合掌をしております。

そして、いつもそれなりに「いいね」もつく。

コメントの数と比べると、「いいね」の数の方が絶対的に多い。

コメントが3件あれば、いいねの数は10ぐらいほどついている。

しかし、われわれ人間というのはコメントの壮絶なる引力に引っ張られ、どうしても「いいね」を蔑ろにしてしまいがちである。

もちろん、コメントをしてくれる方というのはありがたいし、コメントによってこちらとしても英気を養われたり、創作意欲の肥料と化すのは言うまでも無い。

が、個人的にではあるのだが…コメントをしてくれる人はもちろんのこと、「コメントはしてこないけどいいねは押してくれる存在」というのを大事にしたいなと思う今日この頃である。

かくいう私も、いいねだけを押す人間だった

一応ここでは名前を伏せておくが、今でもウォッチしているとあるギタリストがいる。

そのギタリストが新曲(というより新動画)をアップするたび、数年前の私は動画に「いいね」を押していた。
そのギタリストが奏でる曲が素晴らしく、私はそのギタリストが新曲をアップするたびにワクワクしていたものである。
どんなにその新曲がイマイチなものだったとしても(人間なのだから振れ幅はあろう)、とにかく「いいね」を押していた。

でも、なぜか「コメント」はしなかった。

コメントはせずに、とにかく「いいね」だけを押していたのである。

私の中で、とくにこの現象について疑問も持たずに数年が過ぎ、ここ1年ほど楽曲制作をしてきて…「いいね」を押してくれる人はどういう感覚でいいねを押してくれるのだろう?と自分の実体験などを重ね合わせて考えを巡らすに至る。

私はあのギタリストにコメントはしなかったけど、なぜ「いいね」だけは押していたんだろう。

その答えは至極単純であった。

コメントをすると、必ず他人の目を気にしてしまうからである。と。

youtubeは特にそうだが、動画についたコメントに対して「いいね」をつける機能が備わっている。

それゆえ、大多数が「このコメントは良い」と思われるようなコメントをすることで、たくさんの「いいね」が付いたコメントとなる。

つまり、そのコメントは動画の制作者に向けたものではなく、単に自分がそのコメントによって「いいね」をもらいたいから…ということになってしまうのである。

もちろんそうではなく、単純にその動画(曲)に感動したから思わずコメントした…という方もいるだろう。

しかし、私自身の場合は…コメントをするときに「この動画を見るであろう他の人」を意識してしまう傾向があることに気づいてしまった。

他の人が見た時に「このコメント、良いこと言ってる!」と思われたくてコメントをしようとしていた自分を発見してしまっていたのだ。

それゆえ、私はそのギタリストに少しでも敬意を表するために、コメントではなく「いいね」を動画に対してつけていたのだと今になって感じる次第である。

無言の人に価値を見る

先述したが、どうしても私たちはコメント(言語による伝達)に引っ張られてしまう。

声が小さい人よりも、声を大にして高らかに述べている人の方が、その内容がどんなにトンチンカンでも「もっともだ!」と思われやすい。

しかし、目を向けるべきは無言の人々なのだと感じる次第だ。

コメントをしてくれる人を決して大事にするな!と言いたいわけではないが、無言で応援してくれる人に価値を見ることが、創作活動においての精神的な安定につながるのではないかと存ずる次第である。

ああ、なんか乱文になってしまった。

おーわりっ!無理やりっ!

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