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国語の教科書で好きになった夏目漱石

この記事を執筆している週から2〜3週ほど前、「I love you」という曲をアップした。

「夏目漱石」と来て「I love you」と括れば、画面の前の文学少年少女青年淑女たちは自ずとピンと来ているはず。

そう、「月が綺麗ですね」という有名な訳文へと辿り着く。

YouTubeの概要欄にも書いたのだが、私はこの「月が綺麗ですね」という訳文がなんともオシャレで、かつこんな短文で状況が鮮明に想像できるところに怪物的センスを感じた。

月が出ているということは夜である。そして曇り空や雨などではなく、晴れた夜だ。
そして、月が綺麗「ですね」と問いかけているということは相手がいることになる。
さらに、月が見えるような場所。それは鬱蒼と茂っている森の中などではないし、人がたくさんいて周りが明るい歓楽街などでもない。

人っけがなく、周りが静かであるがゆえに月を見て「綺麗ですね」と問うぐらいしか会話をもたせられない。

それはどこかの広めな公園かもしれないし、人っけのないひらけた道路なのかもしれない。
はたまた、どちらかの家の縁側にでも座ってちょっとした会話をしている最中のはずみで出た言葉なのかもしれない。

…などという、私みたいな野暮ったらしい人間に似つかわしくない想像をさせてしまうほどに、「月が綺麗ですね」という言葉は怪物的に素敵なのだ。

そんな夏目漱石だが、そういえば「月が綺麗ですね」よりも前に好きになっていたことをふと思い出した。

そう、あれは高校の国語の授業である。

今でもそうなのかわからないが、私が高校2年だか3年ぐらいの頃、国語の教科書に夏目漱石の「こころ」が掲載されていた。

それまで、国語の教科書に載ってるような作品に全く心を動かされたことはなかった。

それらの作品が悪いわけではなく、むしろ教科書に載ってるぐらいなのだから素晴らしいものに違いはないのだろう。

しかし、どうにも当時の私にはそれらの作品に説教じみた匂いを感じてしまい、拒絶にも似たような態度でそれらを咀嚼していたのだった。

そんな中、夏目漱石の「こころ」だけは違かった。

授業で音読をしていくわけだが、私は音読が苦手なので「自分はこの辺の箇所を読むことになるだろう」と先回りして読んでいた。

すると、なんだか様子がおかしい。

先生という人物が「お嬢」なる人物を好きになっていく…。

そんな中、先生の親友で同じ下宿先のKもお嬢さんを好きになり、Kは先生にお嬢さんへの恋心を打ち明ける…。

しかし、先生はそんなKに黙ってお嬢さんと恋仲に落ちていき、それを悟ったKは自殺をする…。

「なんだ、この話は!!」

私は自分が音読する箇所だけ確認するために先回りしていたつもりが、作品の面白さにどんどんと読み進めてしまっていた。

作品の面白さ…いや、それだと若干の語弊がある。

Kが自殺した心境、そして先生が「Kを自殺へと追い込んでしまった」と苦悩する様に、一種の人間的美しさ、もとい「恋愛におけるリアリティ」を感じたのである。

もっと言ってしまえば、私はKの心境にも先生の心境にも共感してしまったのだった。

一般的な恋愛作品の場合、先生がお嬢と恋仲になったことを知ったKは、先生と「お嬢を奪い合うライバル」になる…なんて展開になるかもしれない。おそらくそっちの方が一般ウケは良いだろう。小説はバカ売れ、映画は興行収入大台突破間違いなしである。

しかし、漱石御大は「Kが自殺する」という展開にした。

Kが自殺をし、さらには遺書に「先生が悪い」なんてことは全くもって書いていなかった。

それが先生の心により重くのしかかる。結果的に先生も自殺をしてしまう。こんな展開を考えつく漱石御大は怪物である。

一人でずんずんと読み進めていった私は、教科書に掲載されている「こころ」が途中までであることを知る。

家に帰り、父に「夏目漱石のこころって小説、ある?」と聞くと、某検事ドラマに出てくるバーのマスターの如く「あるよ」と答えてくれた。あんのかよ。

それ以来、遠い偉人、旧1000円札の肖像ぐらいの認識だった夏目漱石が、なんだか少しだけ身近に感じたのだった。

おーわりっ!


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