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文章を書くのが苦手、という人が本当に苦手なこと

「ぼく、文章を書くのはちょっと苦手なんですよ」

昨日、焼き鳥を食べながら話した後輩の言葉だ。
文章以外なら得意なのか?と意地悪な質問をしたくなるけど、文章を書く以外なら仕事はできる後輩なので、言っていることはそのとおりだ。
そして、「文章を書くのが苦手」という人はけっこう多い。高校時代の「人見知りなんで」と同じくらい多い。

ちなみに、人見知りという免罪符が使えるのは学生時代までで、社会人になったら「初めまして」の名刺交換から仕事で何をしているか、最近の課題や悩みまで息をするように話をするものだと思っているが、そんな話はどうでもいい。

文章を書くのが苦手、という人の話だ。

文章を書くのは面倒だ、とぼくは思う。
自分の考えを言葉にしなくてはいけないし、その言葉も思うように良い感じに並んでくれない。
メールのテンプレート文のように見本があって、それをベースに必要な部分を付け足して完成するようなものなら、言葉をどうするとか考える時間も短くて済むのだけど、「文章を書く」という場合の多くは、こういう「文章を書くのが苦手というのは…」みたいなお題だけが与えられていて中身は自由!だったりする。
だから、言葉をどういう順番に並べるか、どういう構成で段落を構成するか、そういった面倒くさいことを考えなければいけない。

そして、書いた文章が自分のイメージどおりになることは、あまり多くない。というか、ほとんどない。

無駄な表現のない、美しい結論に向かってすっと伸びていくような、例えばライターの古賀史健さんのような、そういう文章を書いてみたい。書けたらいいなと思う。

でも、目の前にできあがってくるのは、ほとんどの場合はゴテゴテと無駄な言葉の多い、迷子になりかけてる文章だったりする。
その、できてなさ加減たるや…。

文章を書くのが苦手、という後輩の脳内を想像すると、この2点が原因だろう。
面倒だし、理想通りにできない

まあでも、書いてみて気づいたのは、だいたいのことはそうだよね。
ぼくにとって、仕事もスポーツも、勉強だって最初は同じだった。
だいたいのことは、最初は面倒だし、理想通りにできない。

それでも地道に練習していると、気持ちよくボールを打てる瞬間が、課題のなかに答えが見つかる瞬間が、とても気持ちの良い瞬間がやってくる。

ただ、文章を書くことがほかのスポーツや勉強と少し違うのは、自由度が高すぎるという点があるかもしれない。
素振りをして打つ瞬間のイメージを固めたり、課題を解き続けて答えを見つける感覚を覚えたり、そういう「この瞬間の、この感覚」という絞り込みがかけにくい。

だから、「好きなことを、納得できるまで書く」みたいなふわっと広い話になってしまうのかもしれない。「まずは、書きましょう」と、ぼくもよく言う。だから、どう書けば良いんだよと、あなたは言うのかもしれない。

このギャップを埋める方法が、ひとつある。

原稿をきちんとチェックしてくれる編集者と仕事することだ。

自分で書く、だけでは気づけないことがたくさんある。だから、客観的に文章を読んで、「もっとこうしたら良くなる」と指摘してくれる編集者と仕事することは、書くスキルを伸ばす最短距離の方法だ。

ただ、「文章を書くのが苦手」という人が、いきなり編集者と仕事するのは無理だろう。

できるとすれば、「客観的に文章を読んで、改善点を指摘する編集者」を自分のなかにつくることだ。別人格として、脳内に「客観的な自分」をつくり、自分が書いた文章の変だなという部分を躊躇なく指摘することだ。理想的な文章の横に自分の原稿を置いて、なにが足りないのかを見比べてみてもいい。

もっと端的に言うと、原稿を翌日に見直すことを習慣にできれば、「客観的に文章を読む」ことがやりやすい。

自分の書いた原稿は、なにかしら思い入れがあるものだから、どうしても客観的に「ここは必要ない」とか判断しにくくなる。ただ、一晩眠って、すっきりした頭で読むと、気づけなかったことがけっこうあったりするのに気づく。余分な言葉を削除したり、わかりにくい部分に説明を補足できたりする。

それができれば、文章を書く能力は飛躍的に伸びていく。

たぶん、「文章を書くのが苦手」という人は、自分のなかに理想的な文章のイメージがあって、その理想のイメージと自分が書いた文章(現実)とのギャップを見るのが嫌なんだと思う。
でも、「なにが理想的な文章か」をイメージできているのは、すごいことだ。

そのイメージがあるだけで、ゴールは見えている。
あとは、ゴールに向かって練習を重ねるだけだ。前に進むだけ、距離は縮まる。

文章を書くのが苦手という人は、文章がうまくなる兆しが出ている人なのだと、ぼくは思う。

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