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「本を囲んだ語り部屋」2024/6/9三宅香帆さん『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

日曜朝のX(Twitter)スペース「本を囲んだ語り部屋」
6/9は三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を取り上げました!!

本書のカバーにある「疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ」という言葉にドキッとする人は少なからずいるのではないでしょうか?
本書では、近代以降の日本における働き方と読書の関係に注目しながら、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という問いの答えを導き出していきます。そして「働きながら本を読める社会」のために、「全身全霊」(全身のコミットメント)をやめ、半身のコミットメントを理想とするという提案が刺激的です。強制されていないのに、自分で自分を搾取する「疲労社会」になっていないかという三宅さんの投げかけからいろいろと気づくものがありました。

冒頭、語り部屋では全身全霊と半身について語り合いました。自分が思い出したのは村上春樹の小説に出てくる主人公の半身感です。仕事も生活も両方を適当に、昼間からビールを飲みながら小説を読んでいる主人公のあり方からは全身全霊感は感じません。スパゲッティをゆでながら古い小説を読んでいる主人公の余裕感に心が惹かれた自分がいました。そこには本を情報として扱っている感覚はないように思います。本書でも触れられている「ノイズ込みの知」を楽しんでいる感覚を感じました。

また全身全霊と半身は対立概念なのかという点でも盛り上がりました。國分功一郎さんが『暇と退屈の倫理学』でも書かれている通り、人間は退屈に耐えられない生き物だと感じます。ゆえに何かに全身全霊になることで退屈から逃れようとしているように思います。その意味では常に何かに対しては全身全霊になっているのかもしれません。そう考えると全身全霊と半身は対立概念ではなく、それぞれは共存しているように思いました。そして考えるべきは、没頭するがために視野狭窄になり他人の文脈を受け入れる余裕や余白がない状態が避けるべきものなのではという話で盛り上がりました。そのためにはいかに自分の中に余裕を余白を持つための聖域を確保することが大切なように思いました。

またモデレータ仲間からの「時間があれば本を読めるわけではない」という指摘も印象に残りました。新しい文脈に触れられるコンディションにあるかどうかという話をもらい、どういう時に新しい文脈に向き合うことができるのかを考えるきっかけとなりました。外部からの問いがある時・ない時、自分の内からの問いが湧いている時・湧いていない時などどういう時が自分にとって望ましいコンディションなのかを振り返ることも大事なように思いました。

最後は参加者の方からの仕事と読書は二項対立ではなく相互補完となるものではという投げかけがありました。物事を分けることの大切さと共に地続きでもあるように思います。分けること、メリハリをつけることの大切さもある一方で、それぞれがつながっている感覚も大事なように思いました。どっちもあってもいいという感覚が余白や余裕につながるのかもしれません。全身全霊と半身、どちらがあってもいいという感覚を大事にしていきたいですね。


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