『居るのはつらくないよ』の僕
『居るのはつらいよ』という本を読んだ。
大学院で臨床心理学の博士号を取得した作者が、ある精神科病院で行われる「セラピー」や「デイケア」なんかで自身の「居る」ことへの解釈を学術的かつ哲学的に書き記した本なのだが。
この本の「居る」とは簡単に言うと「暇」だ。作者は「デイケア」という日常や生活に密着した援助を介して精神病患者をケアしてたわけだけど、仕事内容は「座っている」とか「送迎する」とか「運動」とか「患者の話を聞く」とか。言葉を選ばずに言うなら短絡的だ。
本書の題名通り、作者にとってこの「居る」は「つらい」ことで、苦しく終わりのない洞窟を彷徨ってる感覚に近かったんじゃないかと思う。
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話は変わるが、僕は今通信制の高校に通っている。
元々高校一年の頃は全日制に通っていたのだが、毎日まじで本当につまらなかった。ある日、地元にあったカリキュラムが面白そうな通信制高校を見つけたので、編入してして辞めてしまったんだけど。この本になぞらえて言うのなら、「いる」を脱却したくて「する」を求めたのだろう。
もうその通信高校に在籍して1年になるが、圧倒的にすることがない。カリキュラムはそこそこ面白いし、友達も元いた高校の友達より気があう。高校は変えてよかったと心から思っている。
だが、この一年は限りなく「いる」に近い時間だった。「簡単なレポートをこなす」「週に数回キャンパスに通う」「授業を受ける」などと学生としてやるべきことはあるわけだが、これも言うなれば短絡的で「いる」だけだった。
ここで言及しておきたいのは、僕の「いる」は別に辛くない。「居るのはつらくないよ」なのである。
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作者は仕事や人間関係上の要因はあったとはいえど、「いる」ことが「つらさ」の大きな一因として関与してることは疑いの余地はない。
作者ほどではないが、僕だって友人関係や些細な悩みで苦悩することはある。だけどこの日常的な「いる」ことへ「つらさ」を感じたことは今のところない。
同じ「いる」なのに、どうしてこうも幸福度に差が出てくるものなのか。
答えは『自分に「期待」してしまった』ことにあると考えている。この考えを聞いてほしい。
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作者は特別な存在だ。心理療法師であれ博士号を取得するなんて並大抵の人間にできることではない、すごい人なんだ。
「セラピー」という選ばれた人間にしか成し得ない仕事をするはずだった作者は、どこで道を踏み外したか「ケア」という比較的安易にこなせてしまう世界に足を踏み入れてしまった。
作者は高貴な人生を思い描いていた。自分は特別な人間で、特別な仕事をして、社会に大いに貢献する。
だから、「座っている」とか「送迎する」とか「運動」とか「患者の話を聞く」という特別でない仕事と、理想の仕事のギャップに押しつぶされ、辛くなった。
特別な人間であるはずの証、博士号が呪いとなってケアを見下ろす特級呪物に成り果ててしまった。
僕の通う通信制高校も、言ってしまえば特別でない。特に難しい受験勉強の必要もないし、全日に馴染めない社会的弱者の集まりやすい場だ。
だが僕は、高偏差値の学校に属して青春を謳歌しインスタでぶいぶい言わせる陽キャで華やかな高校生活を理想として思い描いたことはない。
初めからある程度でよかった。少しの苦楽で、少しの友達で、陰キャで陽キャに卑下される人生で別によかった。はなから自分に期待なんかしていなかったから、辛くなることを必然的に回避できた。
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このように特別じゃない場に属した僕と作者だが、これほどまでに幸福度に差が出る要因は「期待をしているかどうか」であることを発見した。
プロ奢は「絶望しろ」なんてよく言うけれど、これはいわば自分の人生に期待すんなってことだよね。
もっともらしい言い分で「絶望」が答えだと思うんだけど、それができたら苦労しないし不可能に近い。俺だって些細にも期待するし、望みが叶わなくて嫌になることなんてしょっちゅうだ。
僕もこれから、高収入の仕事に就きたいとか、良い女性と結婚したいとか、高い地位になりたいとか、自分の人生に期待してしまうことがあるかもしれない。もうこれは止められない遺伝子レベルの本能だ。
そんな自分の人生なんかに期待してしまうことがあったら、どんなに恐ろしいことか。
「居ること」は必ずしも「つらさ」を意味しない。「居ること」が「つらくない」今が、とても恵まれていることにこの本で気付かされた。
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