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楽譜のお勉強【70】レベッカ・ソーンダース『ヴァーミリオン』

前回のハースに続いて、今回の「楽譜のお勉強」でも2022年度後期に愛知県立芸術大学大学院の集中講義で取り上げる作曲家の作品を読んでいきます。レベッカ・ソーンダース(Rebecca Saunders, b.1967)は、ヨーロッパの現代音楽の演奏会で本当によく取り上げられる大人気の作曲家です。多くの作品をCDで聴くこともできます。日本で紹介される際にはレベッカ・サンダースと表記されていますが(Wikipediaでも「サンダース」となっています)、Saundersをサンダースと発音している人に欧州で出会ったことがないため、抗ってみました。彼女の出身地である英国の人たちの発音に準じて表記しています(私がいたドイツではサウンダースとかザウンダースとか呼ばれています)。サンダースと書いて検索エンジンにかけると、有名なポケモン(初代から登場している)ばかりが引っ掛かります。

私がケルン音楽舞踊大学で教鞭をとっていた頃、授業でもソーンダースの作品をかなり頻繁に取り上げました。彼女の記譜はとてもバランス感覚に優れていると感じます。楽譜を読むというのはかなり難儀なことで、合理的判断と感覚的判断の揺らぎの間で決断をしなければならないことが実はとても多いのです。例えば西洋音楽の記譜は、作曲技法上の問題として各音が発音されるリズム点を非常に重要視して発達してきたため、リズム点(発音点)にどのように音を出すか記譜することにとても優れており、さまざまな工夫がなされてきました。それに対し、音の切り方、音が消えるタイミングの表情に関しては、実は発音ほどには工夫がされてきませんでした。作曲家はあるフレーズの終わりを八分音符で書くか、16分音符で書くか悩み、相応しいと思うものを決断して書いていることがほとんどですが、そういった音価を蔑ろにされて演奏されることはとても頻繁に起こります。かといって、音価分の持続を維持してバツっと音を切って良いかといえばそういうことでもなく、書ききれないニュアンスとの戦いを続けている感覚があるのです。その点、私の受けるソーンダース作品の演奏と楽譜の関わり合い方の印象は、かなり高度に優れているように思います。音をどのように演奏するべきかという具体的・実際的な指示と、それを感覚的に処理するためのちょっとした「助言」が併記されていることが多く、その点でバランス感覚が良いと感じるのです。このことは彼女の作品が多くの演奏家に愛されて、よく演奏されていることと無関係ではないと思います。

本日読むのは、『ヴァーミリオン』(»Vermilion« for clarinet, e-guitar and violoncello, 2003)というクラリネットとエレキギター、チェロの三重奏曲です。クラシックを普段聞かれる読者の方はエレキギターに「おや?」と思われるかもしれません。新しい音楽表現を開拓していく過程で、作曲家はもちろん新しく開発された楽器にも興味を示します。エレキギターは電子楽器の中でキーボードを使うシンセサイザーと両巨頭とも言えるほど多くの演奏家を獲得した現代の楽器です。形状はギターと十分に近しいですが、発音の原理が全く異なるため、あらゆる表現のニュアンスがクラシック・ギターと違います。エレキギターにしか出来ない表現も多く、『ヴァーミリオン』の中でもそのような用例が多く見られます。

ソーンダースの音楽で特に際立って特徴的なのは線のオーケストレーションです。一つの旋律線を複数の楽器で演奏し、さまざまなアーティキュレーションを施すことで、一本の旋律線であることが認識できにくくなるような複雑な表情を引き出します。『ヴァーミリオン』も、ほぼ一つの旋律線で構成されているいわばヘテロフォニー(1つの旋律線を複数の奏者が異なる軌跡をたどりながら演奏する音楽語法。アジアの伝統音楽に多い)の音楽です。

『ヴァーミリオン』の演奏用スコアはA3版の大きなサイズで21枚の製本されていないスコア・シートと、4ページの奏法解説書から成っています。独特な記譜法としては、クラリネットの重音奏法の書き方とチェロ(彼女の弦楽器全般)のヴィブラートの書き方があります。まずクラリネットの重音奏法は重音を構成するべき核になる音(指使い)が書かれており、それに指を足したり引いたりして奏者が任意に組み立てる形式にしています。適当な箇所数箇所にX印が付記されていて重音と分かりますが、音高は定めていません。クラリネットはシステムによって指使いが変わるので、厳密に指定しても奏者によって不可能な重音が出てきます。システムごとの代替和音を書く作曲家もいますが、それは少数派で、演奏できない重音が出てくる場合は、奏者が任意に近いと感じられる重音を選びます。ソーンダースの方法ではそもそもざっくりと示されているので、書いてあることが出来ないフラストレーションからは解放されます。しかしあまりに自由だと曲の意図にそぐわない重音が出てきてしまう可能性もあるので、その辺りをコメントで補填しているのです。「分厚く」とか「とても複雑な響きで」とか「汚く」とか、重音が出てくるたびにそこで求められるクオリティを描写しています。これは演奏家にとって相当有用で、自由度を保証されながらも表現の方向性を示しているのは、彼女の作品が頻繁に演奏されているのと関係ないことではないと思います。クラリネットの重音記譜でもう一つ変わっているのは、核になる通常の音符で記譜された音は鳴らさないように指示されていることです。書いてある情報の中で一番音符のように見えて鳴る音を即座に想像させる情報が鳴らないというのは、議論が分かれる点です。以前の記事で取り上げた作曲家アンドレの作品にもしばしばそういった記譜が見られます。これは楽譜のタブラチュア的な側面が強く出た結果で、演奏行為すなわち実際に指や口が何をしているかを記譜している部類に属するもので、楽譜はいつでも実際に鳴る音を記譜しているわけではないのです。このバランスの取り方が現代の新しい作品の記譜においてはかなり難しくなっています。実際の音楽像と楽譜が乖離すれば、それだけ演奏の精度に影響はあるでしょう。重音記譜に関しては議論の余地があるものの、ソーンダースの記譜は概ね演奏者に配慮したものになっているので、私は勉強になる楽譜と感じています。

チェロのパートに現れるヴィブラート記号(下図)は、ソーンダース作品の弦楽器パートに頻出する記譜法です。この音符が現れるタイミングで短い、やや強調されたヴィブラートが演奏され、直後にノン・ヴィブラートに戻して音を伸ばすという意味です。歌のこぶしのような効果が得られ、独特の表情があります。ソーンダースがこの記譜法を開発したのかどうかは確証がありませんが、この記譜法が定着したのは明らかにソーンダース以降です。現在この記譜法を採用している中堅世代や若い作曲家はとても多く、以前はソーンダースの楽譜以外で見ることが稀な記号だったため、浄書された楽譜では手書きで書き足されていたりしましたが、今日では現代音楽記譜でよく使われるフォントに含まれています。フォントの必要性を認めさせるほどに定着させるというのはなかなかすごい影響力だと感じます。

エレキギターのパートは、二段譜で書かれています。エレキギターは、音だけ書いても想定された音質を想像することは難しく、音質のコントロールをいちいち定める必要があります。ここでは、シングル、またはダブルコイルで、ワミー・バーを付ける指示があります。アンプはオーバードライブ、もしくはクリーン・セッティングだそうです。さらにそれぞれのセッティングを細かく書いてあります。ボリューム・ペダルに関する指示も書いてあります。私はエレキギターに詳しくないのですが、この楽器を使った魅力的な曲は本当にたくさんあるので、ぜひそのうち学んでみたいと思っています。上段は概ねEボウ(電子弓)の操作をタブラチュアとして記譜してあります。滑らかなグリッサンドを得られるボトルネックは今日のギター音楽では必須のアイテムとなってきました。この作品でも金属製のボトルネックが用いられます。

息が長く、音程の動きの小さな旋律線が低音域、中音域、高音域で現れては消える音楽です。線の実音自体の音程の動きは大きくない(長短2度が中心)ですが、倍音を介してオクターブ関係で移ったりしますし、線の語尾にかけられたエフェクトが大きな音程距離をグリッサンドで余韻として聞かせたりするので、どちらかと言えば極端に大きな音程で動く旋律線のイメージに近くなります。ただし、テンポがBPM=56と遅い上に、一つの音は10拍を超えることも珍しくないロングトーンばかりで、動的なイメージはありません。

線のオーケストレーションは差音をたくさん聞くことになる組織になっています。短2度よりも小さな音程で重ねられた重音がほとんどいつも線を構成しています。ただし、軸として考えられている音はおそらく片方で、もう一つは表情を引き出すために重ねられているものです。例えば冒頭ではチェロとクラリネットが短2度プラス四分音という、やや大きな音程で静寂状態から徐々に姿を見せます。チェロが先にpppに到達して、音を確定させますが、まだ強度が確定する前にクラリネットは徐々にグリッサンドで上行し、次の小節でppに達し、強弱関係が逆転します。そしてそのまま上行して、チェロのAよりも四分音高い音まで消え入りながら到達します。クラリネットが消えた直後、チェロが重音でAは残しつつ、G#の四分音高い音を同時に演奏します。この導入は先述のヴィブラートで音色の転換が強調されますが、そのタイミングでエレキギターの3弦(Aに調弦)が5連符のパルスを添えます。ボトルネックでパルスを作るので、この音はチェロと同じ音ではなく、不思議な余韻があります。最初の線はいわば直線、Aが伸びているだけの発想ですが、オーケストレーションによって曲線のようなニュアンスも加わり、最初から全く違う様子なのです。このように、線を彩っていく発想の音楽が延々と続きます。

エレキギターの主な役割はパルスメーカーです。チェロとクラリネットがじわじわ伸びているところに、独特の震えを与えながら、一風変わった歌唱が行われているような感じがします。もう一つ大事な役割は大きな音を突然出して、線の開始点の音を隠したり、線の途中で軌道を変えたりすることです。曲は瞑想的な雰囲気に包まれていますが、実際に一つの音を長く聞き届けてから次の音に移っていく考え方で支配されている曲なので、楽譜の複雑さ、奏法上の情報の多さに比して、音楽的情報は煩雑ではなく、とても整理されています。アンサンブルに取り組む演奏家たちが、相互の関係を確認しやすいとも思いますし、好んで演奏することに納得しました。

ソーンダースの音楽は一曲聴いた後の余韻がとても充実しています。オーケストレーションの技法は曲の中でさまざまに試されているので、一つのアイデアを掘り下げているタイプの作曲と言い切ることはできませんが、一つの音をじっくり聴く姿勢から出来る音楽の流れは大きな一つの連なりを生み出しているので、支離滅裂にならない構成を感じることができるのです。よく演奏される作曲家ですし、今後もたくさんの作品を聞く機会があるでしょう。美しい作品に出会える可能性が高い作曲家ですし、今後も積極的に勉強していこうと思います。

*「楽譜のお勉強」シリーズ記事では、著作権保護期間中の作品の楽譜の画像を載せていません。ご了承ください。

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