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楽譜のお勉強【29】チョウ・ウェンチュン『すべては春風の中に』

チョウ・ウェンチュン(Chou Wen-Chung, 周文中, 1923-2019)は中華民国に生まれ、アメリカに帰化した作曲家です。アメリカではニューイングランド音楽院やコロンビア大学で教鞭を執り、尊敬を集めていた作曲家ですが、現在日本でチョウの作品の実演に触れる機会はまずありません。アメリカでも頻繁に演奏される作曲家という印象はありませんが、西洋音楽作曲の歴史において極めて重要な役割を担ったため、国際的に非常によく知られた作曲家なのです。その役割というのは、エドガー・ヴァレーズ(Edgar Varèse, 1883-1965)という作曲家の遺作管理人となり、ヴァレーズの遺作の補筆完成等をして、世に発表したことです。ヴァレーズは新しい音楽語法が乱立した20世紀の作曲界においても特に著しい影響を後世に残した作曲家で、今日でも若い作曲家がしばしば真剣に研究する作曲家です。ヴァレーズの音楽についてはいずれ書くこともあるかと思うので、ここでは詳しく触れませんが、チョウの名はヴァレーズの伝記的文章に頻繁に記述があるため、作品よりも相当名前が知られた作曲家なのです。

作曲家としてのチョウは、中国の詩や絵画、書、音楽などの思想や技法に影響を受け、中国的な表現に満ちた曲が多いとよく紹介されています。この中の「音楽」に関しては、私はいまいち賛同していません。チョウの書く旋律はなるほど中国の大衆音楽的な明快な五音音階のような様相を示していますが、その作法は核となる音程モチーフを移調(移高)したり、反行させたり逆行させたりして連ね、旋律を成していることが多く、メロディー作法に西洋音楽の技法が根深く入り込んでいるものです。もちろんチョウ自身が語るように、「中国的なもの」を表現する意図はあったのでしょうが、中国の伝統音楽の作りに近づいているものではないように見えます。

また、打楽器の扱いはヴァレーズの影響が色濃く、ダイナミックで迫力ある表現を中心としながら、繊細な打楽器の響きも巧みに引き出すので、チョウの音楽の聞きどころです。チョウの初期のおよそ標準ニ管編成の管弦楽曲から『すべては春風の中に』(»All in the Spring Wind«, 1960出版)を読んでみます。

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楽譜冒頭に十国南唐の第3代国主・李煜(リ・ユー、937-978)の詞(韻文詩のジャンル)の引用が英文で掲げられています。

昨晩壊れた夢の中で、
私は再び皇帝の街にいました。
昔のように。
花、月、
すべて春の風の中。

さらにチョウは作品解説を乗せています。(括弧内は私の注釈)

この作品では、私は中国の風景画の感情的な特徴を音で伝え、(絵画と同様の)技術でこの目的を達成しようとしました。中国の音楽で使用される透明度の高い音程の特徴的な連続は、作曲家がオーケストラの響き、音色、質感、強弱を描くパレットとして機能しており、豪華な不協和音で自由に刺繍装飾されています。この変化する旋法と作品の感情的な表現内容は、オーケストラのスペクトル全体に広がる調性的な筆によって投影されます。この作品とこれまでの他の作品で私は、詩人であろうと画家であろうと、すべての中国人アーティストを支配する哲学に影響されています。 すなわち、自然への親和性、実現における表現の寡黙さと簡潔さです。

京劇などの豪奢な表現もあるので、全ての中国人アーティストが寡黙で簡潔な表現を目指しているのかどうかは疑問の余地がありますが、少なくとも漢詩や山水画の表現をいくらか見ると語っている内容は理解できます。実際に『すべては春風の中に』におけるチョウの趣向は簡潔で、抑制された表現を志しています。完全な全合奏で力強く演奏するのは曲の最後だけで、他の全ての箇所は必要な音をしっかり選んで薄く書いています。旋律線の音程の抑揚はオクターブを中心として、4度や5度を多用し、メランコリックな旋律を形作ることを回避しながら、ブロック状に響きを配置していきます。ヴァレーズ、また場所によってはストラヴィンスキーの影響が表層の部分では強く表れています。

冒頭はヴァレーズ仕込みの打楽器アンサンブルから開始します。ティンパニ、スネアドラム、シンバルの順で響きが足されていきます。ティンパニ6打、スネアもユニゾンで繰り返し6打、そしてシンバルはその打奏分の時間をトレモロ。複雑なテクスチャーを作り出そうという意図は見られません。直後、ホルンと弦楽でA-Gの長9度の旋律モチーフを奏します。その後旋律はオクターブ動でGやD、Aを旋律が動いていき、主音、属音、下属音の中を縫っていくごくごくシンプルなブロックを作って進行しますが、その旋律(というか和声的動き)を彩るバスやソプラノの音は短9度で不協和の彩りを添えています。バスはチェロの旋律線の最低音Gに対し、F#で短9度を作り、第2ヴァイオリンの旋律線の最高音Gに対してはAsを短9度で添えます。

この音程短9度はこの作品の中で重要な役割を担っています。旋律線はまるで5度サイクルにオクターブの動きを取り混ぜて調性的に巡るような無骨なものですが、その旋律線ユニゾン体の最低音の短9度下のバス、その最高音の短9度上のソプラノが加えられて平行和音として運動していくような作りになっている箇所が多いです。

曲開始後、フルートとオーボエは短3度の高速トレモロで一瞬風を吹かせます。この3度のトレモロは多くの場合完全4度や完全4度堆積和音で風の表現のようにうねりを作っていきます。更にハープが参入し、旋律線の簡易な作り方をなぞりながらも、その間をグリッサンドで埋めていく奏法を採用することで、割と強めの風のような表現も入ってきます。

中盤以降は旋律線が点描的な様相を見せ始め(オクターブ動主体の作り方は変わらず)、その装飾として管楽器の同音連打をメロディーの音をなぞって表情を付けます。とにかく、いずれもシンプルな表現で、薄くオーケストレーションされているので、狙った表現が耳に届かないことはありません。

後半でかなりストラヴィンスキー的な箇所が一瞬登場します。16分音符の刻みにずらされたアクセントを当てることで、立体的なビートの疾走を作ります。また、ここでは和音も、それまでの方法の援用とはいえ、十分に音数が多く、旋律線を彩るというよりは、和声をしっかり書いている部分になっており、曲中で異質な箇所となっています。和声はしっかり書いていますが、その彩色方法もそれ以前の部分の短9度の応用です。軸和音から数えて短2度にオクターブを加えたこのオクターヴを廃し、和声的な和音のそれぞれの周りに短2度を密度の高い不協和音で彩色し、不協和の効果を高めている点が魅力的に響きます。この部分でストラヴィンスキー風なのはリズムの扱いで、音組織はかなり即物的です。曲の中であまりにも浮いている印象も受けました。

この曲を読んでいて、聞いてみて、思い出した作曲講義があります。2007年に私は武生国際音楽祭の作曲コースを受講しました。その時特別講師として招聘されていて、後に私の師となるヨハネス・シェルホルン先生が講義で自作の管弦楽曲『リウ・イ/水』(»Liu Yi/Wasser«)に関する講義で、インスピレーションとなった山水画の筆運びを説明していました。シンプルな筆運びによる同様の曲線を描き、それが何に見えるかと問われました。山状のゆったりした曲線に見出せる様々な類似形状のものを受講者たちが述べると、シェルホルン先生はさらに同様の曲線を書き足していきます。「これならどうですか?」という具合に示された絵は今度は違うものでした。また、逆向きの曲線を描いたり、当初の曲線と逆向きの曲線を組み合わせたりして、同じ筆運びをどんどん繰り返すと、その配置で認識が変化することを示しました。前述の管弦楽曲は、そのようなアイデアでミクロなマテリアルを延々と認識が変わるように配置していくような筆で書かれているようでした。この作品を最初音源で聴いた時は、美しい曲だと思いましたが、後日ドイツに留学してからこの作品の実演を聴くと、全く違うポテンシャルを持っていた曲だったのです。オーケストラ全体に抽象的に配置された点の集積の中から誰が演奏しているか認識し辛い長い線がじんわり滲み出してくるのです。ミニマルミュージック(反復音楽)の登場以降のアイデアからたどり着くようなコンセプトですが、驚くほど立体的な聴取につながる作品で、シンプルな作品という印象も受けませんでした。奥行きを感じました。

チョウの『すべては春風の中に』は山水画にインスピレーションを受けていたのかもしれないと思えるような、ミニマリスティックな思考で作曲されていました。しかし、この曲を聴いた私の感想は、「こんなに少ない素材でこれだけの曲を書けるなんて素晴らしい」というものではなく、作曲家の手の内が分かりすぎてやや凡庸に聞こえてしまうのではないかということです。これはおそらく、抑制された表現を求めるあまり、耳が聞き届けられる効果ばかりを丁寧に書いているからそのようになったのかなどと逡巡しました。どのくらい音楽を謎めいた状態にするか、どんな音をどのように張り巡らせるか、これは嗜好の問題です。チョウ・ウェンチュンの作品に見られる作曲技術はとても興味深かったものの、私にとっては少し見通しが良すぎる音楽のようでした。

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