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楽譜のお勉強【44】アネスティス・ロゴテティス『ステュクス』

私の音楽語法にいまいち馴染まなかった記譜法の一つが図形楽譜です。今回で43回目になる「楽譜のお勉強」では、たくさんの近現代の音楽の楽譜を読んできましたが、図形楽譜と呼べる作品はマリー・シェーファーの一曲のみです。図形楽譜は現代音楽業界で一時期流行を作りました。しかし、その後はどんどん減って、今日いわゆる図形楽譜の機能で楽譜を書く作曲家は大変な少数派になりました。ただし、グラフィックの密度の変遷で音楽の鳴り響き方を示しつつも音楽内容に大きな自由度を獲得した楽譜の在り方は、今日の作曲家たちの記譜の美学に大きな影響を与えています。私自身、図形楽譜を眺めながらその演奏のヴァージョンを聴き比べたりすることはとても楽しく、折に触れて楽しんできました。ジョン・ケージ、ロバート・モラン、コーネリアス・カーデュー、アール・ブラウン、ロマン・ハウベンストック=ラマティ、シルヴァーノ・ブッソッティ、クラウス=ヒンリッヒ・シュターマー等の作品をご紹介してみたい思いもありますが、今回はギリシャの作曲家、アネスティス・ロゴテティス(Anestis Logothetis, 1921-1994)の『ステュクス』(»Styx«, 1968)を読んでみたいと思います。

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「ステュクス」とはギリシャ神話で地下を流れているとされている大河で、その大河を象徴する女神の名でもあります。作曲者は標題『ステュクス』について以下のように解説しています。

「ステュクス」という名は、3つのことを意味しています。最初の文字(ギリシャ語のシグマ[Σ])が、まず楽譜を読む方向を示しています。そしてそれに伴って作品の視覚的形態も表します。しかし同時に音の流れも表しています。すなわち、常に乱流から始まり、さまざまな種類の沈黙につながっているのです。(意訳・稲森安太己)

この文章から、作曲家はこの音楽を一種の河の流れのようにも見立てていることが分かります。音の流れ≒水の流れのような類推でしょう。視覚的形態も流れる河のようでもあります。この文章で大事なことは、楽譜を読む方向が通常の読譜の方向と全然違うということです。ギリシャ文字のシグマの形に読んでいくので、右上から読み始めて左に、左で折り返して右下方へ。右で折り返して左下方へ読み進めて、左から右へ直線的に読む、という変則的な読み方です。シグマの文字を象った縁取りの中に音楽内容が記されています。演奏時間は10分10秒と定められていますが、その時間の推移が縁取り枠に秒数で表記されています。この数字の流れが右から左へ、左から右へと変わっていくので、何だか読みにくい気もします。ただ、各部分の流れは充分にゆっくりなので読み誤るということはあまりなさそうです。

他にも解説で色々な決まり事が説明されています。

『ステュクス』では、イントネーション、持続時間、音の連なりを示すタイムスケジュールの記載に則って、全ての参加演奏家(楽器・人数は自由)が共同で解釈します。記譜内容は、「音高記号」、「アクション記号」、「結合因子」の連結によって記されています。演奏家は音高や音の混ざり方を変更したい場合は「音高記号」を削除しても構いません。ただし「アクション記号」と「結合因子」は音の特性を示すので、変更しないように。(意訳・稲森安太己)

音高記号は五線上の音符のような記号です。線は最大で2本で、平均率の12音を全て網羅しますが、どのオクターブに位置する音高かは、楽器が任意なので示しません。例えば2本の線のうち、上の線上に黒い音符が置かれている場合、Es(変ホ)音を意味し、白い音符の場合はE(ホ)音です。逆に下の線上に白音符でA(イ)、黒音符はAs(変イ)です。一本の線上に白い音符はC(ハ)、など、2本の線と音符の白黒で12の音を書き分けています。西洋音楽で特に顕著な考え方ですが、どこのオクターブにあっても一応同じ音とみなす考え方が見受けられます。実際には楽器のどのオクターブで演奏されるかで音高は存在感自体が変わったりしますし、その効果を活かして作曲家たちはオクターブ跳躍音型などを大昔から書いたりしているので、誰も本当のところでは同じ音とみなしてはいないのです。しかしハモるかハモらないかが和声学上の肝なので、確かに周波数が倍々に増えていくだけのオクターブ関係はハモると言えばハモるので、考え方を整理するのに役立つのでしょう。

「アクション記号」とは、それぞれの箇所でのグラフィックの在り方そのものを指すようで、「グラフィックの動きに応じて楽器で音楽へ変換して表現しなさい」と書かれています。「結合因子」は強弱や奏法に関する共通認識を表す表記方法のことです。例えば細長い線は弱奏で長く、太短い線は競争で短く、波線はヴィブラートを効かせて、上下の振幅の激しい線はトレモロ、などです。興味深いのは、花火のように中心から多量の線が開いているような表記の時は「倍音たっぷりに」演奏するそうです。弦楽器だと駒近くとかそういうことなのでしょう。

(前半部分のみ)

これらの情報を総合して読んでみると、なるほどこのグラフィックは確かに楽譜です。図形楽譜で一見自由な音楽エネルギーの推移を示しているように見えるロゴテティスの楽譜も、ある程度音を限定して鳴り方を厳密にコントロールしていることが興味深いです。今回は3つの音源のリンクを貼っておきます。どの演奏もかなり近い音楽に仕上がっている点を確認していただけることと思います。通常の記譜法では表現することが難しい複雑で細かいアンサンブルを記述する方法を図形楽譜は大きく押し進めました。今日の作曲家が図形楽譜に振り切っていることは珍しいですが、その楽譜の見た目から、図形楽譜の興盛が現在の音楽に与えた影響の大きさを思い知ります。やはり時々はこういった音楽を振り返ることは有意義だと感じました。

私がドイツで生活をしているとき、よく演奏会を聞きに赴き、時には演奏家としてとてもお世話になったアンサンブルがケルンにあります。アンサンブル・ムジークファブリークという現代音楽界きっての強豪アンサンブルです。素晴らしい演奏を数えきれないほど聞きました。そのアンサンブルの事務所のガラス張りの壁には、ロゴテティスの楽譜が大きく印刷されています(確か『オディッセイ』だったと思います)。大きく印刷された図形楽譜は抽象画の様で迫力がありました。今もよく演奏されるケージなどではなく、あえてロゴテティスを飾っている美観に大いに共感したことを覚えています。

*)冒頭に触れたマリー・シェーファーの作品に関する記事はこちら。


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