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ステキな作曲レッスン②アンドリュー・ディグビー

ケルン音楽舞踊大学に在籍していた頃、多くの特別講師が招聘され、講義を聞いたり作曲の個人レッスンを受けたりする機会に恵まれました。作曲家以外の、現代の新しい音楽を頻繁に演奏するミュージシャンもよく招待され、様々な楽器の新しい可能性を示した楽曲について紹介していただきました。そんな中、シュトゥットガルトの街を中心に活動する現代音楽アンサンブルであるアンサンブル・アスコルタ(Ensemble Ascolta)のトロンボーン奏者、アンドリュー・ディグビー(Andrew Digby)もケルン音大で講義をしてくださいました。ディグビーは作曲家でもあります。トロンボーン奏者としての多忙な活躍から自ら作曲した作品は影を潜めがちですが、大きな音楽祭で作品が演奏される機会もある優れた作曲家です。トロンボーンの曲ばかりを書くということもなく、様々な編成の作品があります。

ケルン音大に招聘されたとき、ディグビー先生は2つの講義をしました。一つはトロンボーンの新しいレパートリーについて。トロンボーンという楽器は現代音楽の作曲家を魅了して止まないグリッサンド(2音またはそれ以上の音の間を漸次的に繋ぐように滑らかに演奏する奏法)が大変得意です。スライド・アクションという特別な構造によって、まるで弦楽器のような滑らかなグリッサンドが可能な珍しい管楽器なので、そのレパートリーも独特なものが多く、とても興味深い講義でした。

もう一つの講義は、彼自身の作品について語るものでした。この講義が圧巻でした。私はそれまで、ディグビーの作曲した楽曲は2曲ほどしか聴いたことがなかったのです。いずれも面白い曲でしたが、小さい編成のもので演奏時間も長くなく、優れたトロンボーン奏者としてのイメージが私の中で邪魔をして、作曲家としての力量を真っ当に推し量ることはできなかったのです。

たくさんの作品を紹介していただいた講義でしたが、その中でも特に『ショパン編曲集』("Chopin Transcriptions" for ensemble, 2010)という作品がとても異様で面白い曲でした。委嘱主である音楽祭からショパンのノクターンをテーマにした作品の依頼を受けて作曲したものだそうです。タイトルから素朴なショパンの編曲を想像してしまうのですが、全然趣の違う、いわば創造的編曲に当たる作品です。特にこの作品での特殊なリズム記譜法がとても優れた効果を持つもので、ショパンの音楽への深い洞察を感じました。ショパンの曲には拍節感が特殊なものがいくつもあって、練習するときは楽譜を拍分割通りに読んで「1、2、3、」と数えて読むのですが、次第にそのように演奏すると違和感を覚えるものがいくつもあるのです。拍子の中に別の拍子が隠れて入り込んでいることもありますが、そのような作法はブラームスほどには見つかりません。私が感じるショパンの拍は、言ってみると「伸びて行く拍節感」と呼べるようなものです。「1ーーーーーー」と息の長い音楽がどこでフレーズが切れるのかも分からずに続いたりしているように聞こえるのです(*)。ディグビーの『編曲集』では、そのような特殊な拍節感をアンサンブルの奏者がバラバラに演奏して、合っていないのに大枠のタイミングをしっかり固定してあって、なぜか合っているように聞こえる不思議なアンサンブルを現実的な方法で実現していました。書法の学びがとても大きかった講義です。ピントが合わずにブレ続けているショパンを、トロンボーンやギター等を含むアンサンブルで聴くのは、とても新しい聴取体験でした。

そんなディグビー先生に作曲の個人レッスンを受けることができました。私は2作品見ていただきました。一つは管弦楽のための『リヴァーシ』(»Reversi«、2012)という作品で、2013年に芥川作曲賞にノミネートして頂いた作品です。もう一つはホルン独奏のための『クィド・リーデス?1』(»Quid rides? I«、2009/2016)という作品の初稿です。

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(譜例『リヴァーシ』から。©Edition Gravis Verlag GmbH)


まずレッスン室に入ると、前の生徒との間に時間があったようで、先生が一人でピアノに座ってピアノを弾いていました。先生は演奏を止めて、軽く挨拶を交わすと、レッスン室に置いてあったピアノ・コンクールのチラシを見せてきました。

「最近はコンクール課題曲に結構面白い曲があるね。これはちょっとビックリした」と言って、チャールズ・アイヴズ(Charles Ives, 1874-1954)の曲を暗譜で弾き始めました。衝撃的でした。トロンボーン奏者のディグビー先生が、演奏が難しく一般的知名度がそれほど高いとも言えないアイヴズのピアノ曲を演奏しているのです。最初の数小節だけ弾くと、「この後は楽譜がないと覚えてないね」と言ってはにかんだように笑って演奏を止めました。知的な方だと感じていましたが、私の予想を大きく越えていそうだと思いました。そう言えば講義のとき、ニコラウス・A・フーバーやコーネリアス・シュヴェアのトロンボーン作品も暗譜で演奏していたな、と思ったり。

「今日は何を見せてくれるの?」と言われ、上述の管弦楽曲を見ていただきました。ディグビー先生は私が今までレッスンを受けた作曲家の中でも特に丁寧に時間をかけて一音一音読んでくださった印象です。ページをめくりながら、何度も「ここ、音間違ってない?」と聞かれました。実は音は間違っていなかったのですが、よく読むと間違ったように見える音がたくさん書いてあるのです。これには理由があって、実は『リヴァーシ』は楽器の運指の動きをシステム化して、そこから音を導き出して書かれている曲なので、楽器が変わっても似たような音形が現れるのですが、楽器によって少しずつディテールが違ってくるのです。音型が十分に似ていることから、一音一音を照らし合わせて、たくさんの楽器からなる音の層の中から、「この音が間違っているように見える」と言えるほどに楽譜を読んでいただくことは、作曲レッスンでそれほど頻繁にはありません。現代の新しい音楽の書法は「間違い」を判断しにくいものが多いため、よほど確信がないと言い辛いコメントでもあります。その後、じっくり読んでいただき、響きのコントラストが面白い設計だと言っていただきました。

さらにもう一曲、ホルン独奏のための『クィド・リーデス?1』を見ていただきました。この作品は初稿が2009年なのですが、完成までに大変長い時間がかかりました。当初恊働を予定していたホルン奏者と初稿が完成してから会った時に、この作品で私の考案したタブラチュア楽譜がかなり酷いものだったので、そのままでは演奏することができず、いつか改訂して初演に漕ぎ着けたいと思っていたものです。しかし、奏者と地理的、時間的な制約のためになかなか会えず、それでも改訂のきっかけがほしくて、ホルンと同じ金管楽器の奏者であるディグビー先生の助言をいただければと思ったのです。

先生は知的好奇心が旺盛な方ですから、楽譜を見てまず、「これはかなり面白そう」とおっしゃいました。それで、私がホルン奏者と話した打ち合わせの内容を伝え、どのように書けば演奏家が使える楽譜になるか助言を乞いました。『クィド・リーデス?1』の初稿の一番の難点は、何の音を演奏しているかが大事な音楽なのに何の音が書かれているのか分からないことです。これを音で書くことがまず一番大事とおっしゃっていて、これは私が感じていた改定案と共通していました。

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(譜例『クィド・リーデス?1』の初稿から。上段が手によるアクション、2段目が口によるアクション、3段目が狙う倍音を示す。その下に同時に歌うことがあれば更に段を追加し、最下段には鳴ることが見込まれる音のリファレンスを示している。現行の版は全然違う楽譜なので、初稿の様子はここでのみ、ご覧いただけます。)


そこでディグビー先生は、ご自分のスーツケースからいくつかトロンボーンの曲の楽譜を取り出し、タブラチュア要素の強い楽譜をいくつか例示してくれました。その中である曲に関して、「この曲のここの指定は僕は演奏しない。意味が全くないから」と言って、スライド・アクションがほんの少しだけ動いているか動いていないかの変化を複雑なリズムで記譜してある上に、細かなアーティキュレーションでスライドとシンクロしない息の記譜によるポリフォニーの箇所を示しました。「そもそもすごく繊細にコントロールして、ほぼ不可能なリズムを息と手でバラバラに練習しなければならない途中に、ここ!この一瞬に音と動きが不可能なことが書いてある」と、パラメータが矛盾を持っている箇所を定規で線を揃えて例示してくれました。「これほど練習しなければ演奏できない曲に、どう考えても不可能なことや意味のないことを書かれると、演奏家は作曲家への信頼を失ってしまうから、複雑なパラメータの曲を書くときには、演奏家がそこで何をしているのか、特に気をつけて書いてね」と言っていました。それから更に数年を経てまた別のホルン奏者の協力を経て『クィド・リーデス?1』は2016年に完成します。

ディグビー先生の作品における記譜は、複雑な音楽的内容を演奏家が自由な状態で実現できる書法で作曲されており、とても感銘を受けました。演奏家としてのディグビー先生は、演奏する作品の楽譜に本当に真摯に向かい合ってじっくり練習する人です。そのような演奏家を幻滅させない作曲家でありたいと願って今も研鑽を積んでいます。


*) 特にショパンの「即興曲第3番」、「新練習曲第1番」、「練習曲Op.25/2」、それと大分作品の書法から外れる聴き方かと思いますが、「舟歌」等に私が感じる拍節感です。個人的な聴き方ですが、その一端を担っているであろう書法について少し解説します。一つは和声取りが割と大きな拍感の中でなされていることがあります。旋律線の抑揚のバランスによって、数えるのが無意味に思える程大きなまとまりが生まれるということ。もちろんフレーズ感はあるので、「拍節感が全くない」ということではありませんが、実際に書かれている拍感よりも随分と大きなまとまりを感じやすく仕上げてあるということです。前2曲に関しては、聴いている人が直感的に拍感を感じるのにまず時間がかかることも要因かと思います。もちろん、拍節感を強調する演奏をすれば別ですが、おそらく旋律線の抑揚から考えると、割と淡々とミステリアスに弾きたくなる人がいるのではないかと。作品25−2は、「即興曲第2番」の後半部分の書き方とも通じるものです。和声感のまとまりがすっきり切れて聞こえますが、旋律が和声の切れ目を切らないようにどんどん紡がれて行く波を構成していて、聴いている側としてはそこで呼吸ができるということを忘れそうな感じです。舟歌に関しては波のモチーフの伴奏はしっかり区切りを作っていますし、自分でも何故そう感じるのか分かりにくいのですが、おそらく主題の始まり方が長音であることと、それを支える和声と伴奏形のバランスの結果かと想像しています。

*2)『リヴァーシ』および『クィド・リーデス?1』の楽譜についてのお問い合わせは以下のリンクからお願いします。


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