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楽譜のお勉強【24】ヘルムート・オェーリンク&イリス・テア・シフォルスト『プレ=ゼンツ』

西洋音楽の歴史では特に音楽教育が整備され始めた近代史以降、特定の作曲家に絶大な価値を与えてきました。作曲家に与えられた価値が独り歩きし始め、時にそのファンたちによって信仰に近い尊敬を受けて、全ての作品が過度に好意的に受容されてきた側面もあります。もちろんここで言う「特定の作曲家」が優れた作品をいくつも残した作曲家であることは言うまでもないのですが、いわゆる大作曲家の全ての作品が等しく名曲かと問われれば、甚だ疑問です。もっと作品そのものを聴く耳を鍛えたいといつも感じています。しかし特定の作曲家に価値を見出し、研究することの意義も理解しています。作曲家が生きた時代や社会の意味を、意識を、音楽観を、優れた作品を通して読み解くことは意義深いですし、そのためには作品の成立を促した作曲家の生き様も知る必要があるでしょう。

特定の個人に与えられるクレジットがあまりに莫大な西洋音楽において、個人の名前の価値が薄まる行為はあまり好まれません。そのため特に西洋クラシック音楽由来の音楽(現代音楽を含む)では、共作、合作の類いは極めて数が少ないです。作曲家一人ひとりの個性がどこにあるか分かり辛くなる可能性があります。まあ他人と作るよりも一人で作る方が楽だという面も大いにあると思います。今回はそんな珍しい共作作品からヘルムート・オェーリンク(Helmut Oehring, b.1961)とイリス・テア・シフォルスト(Iris ter Schiphorst, b.1956)が共同で作曲した『プレ=ゼンツ 〜5場のバレエ・ブラン II』(»Prae-Senz« Ballet blanc II in fünf Szenen, 1997)を読んでみたいと思います。

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オェーリンクとシフォルストはいずれもドイツの作曲家で、それぞれのキャリアの初期に競作を数多く発表してきました。個々の作風はかなり違うのですが、競作作品を聴くと、どちらがどの部分を作曲したかよく分かりません。実際に個性が混ざり合って、別の個性になっていると言えそうです。オェーリンクは耳の聞こえない両親の元に生まれ、手話を用いたコミュニケーションが家庭の言語でした。そのため手話を用いた作品をたくさん書いています。また、クロスオーバー意識が極めて高い作曲家で、ロックバンド、ビッグバンド、アラビア地方の音楽家、ゴスペル・シンガー、ダンサー、俳優、など様々なジャンルの音楽家とクラシックの演奏家をひとまとめにした巨大な作品が創作の中心です。シフォルストは西洋の現代音楽シーンの主流の一つとも言える、特殊な響きを特殊な管弦楽法で聞かせる作品が得意です。二人の作品に共通して見られる作曲上の興味としては、複雑なリズム・モデュレーションを軸としたリズム書法でしょうか。

『プレ=ゼンツ』はヴァイオリン、チェロ、プリペアド・ピアノおよびサンプラー・キーボードのために書かれています。変則的なピアノ三重奏の編成です。長めの録音音源も冒頭等で再生されますが、全てピアニストがコントロールします。5場からなるバレエ音楽で、踊りが付く上演もあるようですが、演奏会用作品としても上演可能です。

現代の新しい音楽の楽譜冒頭には通常簡単に読み方を説明したページがあります。例えば作曲家によって臨時記号(シャープやフラット)を古典的な記譜と同様に小節内で有効にするか、煩雑なパッセージの臨時記号を全て記憶する手間を省くために一音一音新しく書き加えるか、など基本ルールが曲によって異なります。さらに楽器の特殊な演奏方法を示すために新しく考案された音符等がある場合、その説明も書かれます。

『プレ=ゼンツ』では電子機器も利用するため、かなり詳細な説明ページがありました。しかし、曲の内容をよく読んでみると、説明ページが十分ではありませんでした。まず、タイトルの『プレ=ゼンツ』ですが、明らかな先行作品があります。ベルント・アロイス・ツィンマーマン(Bernd Alois Zimmermann, 1918-1970)の『プレゼンス』(»Présence«, 1961)です。ツィンマーマンの『プレゼンス』もヴァイオリン、チェロ、ピアノのために作曲されており、なおかつ5場のバレエ・ブランと副題も付いています。同じ編成で同じ構成である作品に似たようなタイトルが付いているので、ツィンマーマン作品へのオマージュと考えることが出来るかもしれません。ただし、このことへの言及は説明ページにはありませんでした。あまりにも自明なので書かなかったのか、それ自体は当初あまり問題視しませんでした。しかし曲を読んでいくと、説明で見た覚えのない記譜法が出てきて困惑したのですが、ツィンマーマンの『プレゼンス』の引用でした。『プレゼンス』では傾いた白丸音符(通常二分音符を表す音符)が八分音符や16分音符にも見られ、別の意味で用いられています。煩雑な臨時記号を取り除く試みとして20世紀後半のごく短い期間何人かの作曲家が用いていた記譜法です(他はプッスール作品など)。この記譜法がいきなり『プレ=ゼンツ』の楽譜に出てきて、「B. A. Z.を参照せよ」と注意書きされているのです。私はたまたま『プレゼンス』の楽譜を持っていたから参照して、引用部分の確定と意味の解読ができましたが、参照すべき曲のタイトルすら説明書きにないのはかなり不親切だと感じました。

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(ベルント・アロイス・ツィンマーマンの『プレゼンス』のスコア)

また、ドイツ語と英語の解説が少し違っていました。ドイツ語の最初の一文が英語解説では抜けていて、その一文が大分大事な気がするのです。抜けている一文にはこうあります。「この曲の演奏開始の前にはプロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番を演奏すること、そして休みなしにこの曲に入ること。」この説明がなければ、誰もプロコフィエフのソナタから始めようと思わなそうです。なぜ英語版ではこの一文を抜いたのか疑問が残ります。

楽譜自体はかなり明瞭に書かれています。聞こえ方がかなりヴィヴィッドであるのに対し、難しいリズム書法は少ないです。時折現れる難しい分割も、キレイなスペーシングで書かれており、直感的に正しく読むことが出来ます。難しくないリズムから活き活きとした質感を生み出すために、アーティキュレーションが慎重に有効に用いられています。例えば94小節に現れる疾走するヴァイオリンとチェロのリズム・ユニゾンでは、それぞれにあまり難しくないパッセージが書かれていますが、アクセントの位置がずらされていて、なおかつランダムに聞こえる位置に置かれています。きめ細やかで複雑なアンサンブルに聞こえる工夫です。

冒頭、サンプラーがいくつかの朗読を終えた後に始まるチェロのピツィカートも効果的ですが、大変シンプルに書かれています。ヴァイオリンの軋むオーバープレッシャーの運弓とサンプラー・キーボードの朗読録音サンプルをごく短く切って連打するフレーズが加わって彩りをさらに豊かにします。シンプルな考え方で最大限の効果を引き出している点が魅力的です。響きはかなり異次元の質感だと思いました。

全体にオェーリンクとシフォルストの作風が混ざり合っていてあまり分けられないと書きましたが、明らかにオェーリンクだと思われる箇所はいくつか指摘できます。彼は高速パッセージでほとんど現実的でないような跳躍音程を書くことがしばしばあります。この作品でも超速パッセージ中に2オクターブを超えるような跳躍が現れるところが何箇所かあります。これはおそらくシフォルストではありません。

『プレ=ゼンツ』は電子音の使用も手伝って、通常のピアノ三重奏では出せない魅力を聞かせるピアノ三重奏曲です。数あるピアノ三重奏団でも取り上げる団が多いとは言えない曲ですが、コンサートのコントラストを作るにはとても適したレパートリーです。今後も再演されていくと良いと思いました。

私はシフォルストとは面識がありませんが、オェーリンクのグループ・レッスンを受けたことがあります。2016年にGEMA(ドイツの著作権協会、日本のJASRACのようなもの)が開催している若手作曲家ワークショップに選出されました。その年はオェーリンクが講師で、その時にお会いする機会がありました。自身のバックグラウンドを密接に作品に活かした音楽が興味深く、貴重な講義を聞きました。私の作品では箏の曲に特別な関心を示してくださいました。クロスオーバー作曲家らしい印象です。ワークショップは選抜式で、毎年5名ほどの若い作曲家が呼ばれます。個人レッスンはなく、グループ・ディスカッションとセミナー中心のワークショップです。費用は全てGEMAの負担で、本当にありがたいイベントでした。私が持っていった彼の楽譜にサインもしていただき、良い想い出です。

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