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楽譜のお勉強【10】マルク・アンドレ『hij 1』

私の家に眠る楽譜を少しずつ読んでいく記事のシリーズも10回目となりました。今回は個人的にしばしば集中して勉強した作曲家でもあるマルク・アンドレ(Mark Andre, b.1964)の『hij 1』について書いてみます。学生の頃、アンドレの語法をしばしば好んで勉強してきたのですが、『hij 1』は初演以来好きな作品であるにも関わらず読譜を避けてきました。その理由がスコアの大きさです。A2サイズの巨大な判型で広げて読むのに不便な大きさで、なおかつ細かい音符で埋め尽くされています。家にある楽譜で最も大きなものではありませんが、音符の小ささと楽譜の大きさのバランスから来る読譜の億劫さは上位にランクインします。

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アンドレはパリでジェラール・グリゼイとクロード・バリフの元で作曲を学んだ後、ドイツのシュトゥットガルトでヘルムート・ラッヘンマンの元で更に研鑽を積みます。アンドレの初期の作品はラッヘンマンの作品の音楽構造との類似が頻繁に指摘されていました。また、多くのラッヘンマンの弟子たちと同様に、楽器の新しい奏法の探求も行っており、演奏方法の新奇さやそこから来るイントネーション豊かなノイズで人気を得た作曲家というイメージがあります。

『hij 1』は大管弦楽のための作品で、西ドイツ放送交響楽団の委嘱により2008年から2010年にかけて作曲されました。私はこの作品の初演をケルンのフィルハーモニーホールに聴きに行き、大変な感銘を受けました。2010年代から現在までのアンドレの作品は、初期(最初期のフランス期ではなく、ドイツ滞在初期)の作品に見られる執拗な楽器探求はやや影を潜め、それまでに培った技術を用いて大変洗練された不思議な音響を無理なく作り出す作曲家になったように思います。楽器探求が極端な関心時であった頃の作品に比べ、奏者に非現実的な無理をさせません(と言っても、演奏は近作においても大変難しく、一流の音楽家たちが多大な緊張感を持って取り組むものです)。これは、アンドレの作品発表の場の中心が小編成の室内楽から管弦楽やオペラといった大編成のものに移っていったことと無関係ではないように思います。『hij 1』の編成は以下の通り。フルートx3、バスフルート、オーボエx3、イングリッシュホルン、クラリネットx3、バスクラリネット、ファゴットx3、コントラファゴット、ホルンx6、トランペットx4、トロンボーンx3、チューバ、打楽器奏者x3、ハープx2、ピアノ、第1ヴァイオリン(12)、第2ヴァイオリン(12)、ヴィオラ(10)、チェロ(10)、コントラバス(8)。演奏時間は22分ほどです。

『hij』は、「ハー・イー・ヨット」または「ヒィ」と読みます。最近のアンドレはタイトルを略語やアナグラムで付けることが多いです。以前は助詞や前置詞をタイトルにすることが多かったです。そしてその略語、助詞、前置詞の多くは聖書からの引用です。『hij』はオランダ語の挨拶「hej」をもじったものと解釈することができ、またドイツ語の「Hilfe, Jesu」(主よ、救いたまえ)の略語としても解釈することができます。読み方や意味を多元的にしている点、意味を説明するけれども、音楽との結びつきの説明をほとんどしない点が、アンドレの美学を物語っています。大変機知に富んだお話をされる作曲家ですが、作曲においては言葉ではなく、響きと構成でものごとを考えているのだろうと想像します。

曲の冒頭は譜面台ごと(2人ずつ)に分割された弦楽器群が1プルト(譜面台)ずつ1小節遅れで擦音ノイズを聴かせます。これはアンドレの作品において非常にしばしば見られるカノン(*)になっています。割と短いユニットとしての1小節(冒頭は8分の3拍子)を様々な分割で処理してリズム点をズラしてポリリズム状態を作り、ランダムにノイズが散っているように聞こえる状態を作り出すのです。この作品の冒頭では弦楽器の音高を伴わない摩擦音ですから、カサカサと何かの気配が蠢いているような状態を作り出しています。またこの技法は曲の後半で再び現れます。321小節目から、弦楽器が固いピックでミュートされた開放弦を叩いていきますが、このセクションもカノンになっています。ランダムに聞こえる状態を、少ないマテリアルを重ねることによって作り出す、経済的な管弦楽法で、労力以上の効果の高さが得られることが多く、さまざまな作曲家が用いている技法でもあります。アンドレの場合、リズム素材の準備には大変慎重で、タイで次の小節まで音を結んで、2小節を1ユニットとしてカウントするモチーフや、小節第1拍を休符にしたモチーフを用意しています。このことから、小節第1拍に不必要な比重が置かれることがなく、ランダムにノイズが散見される状態が壊れません。また、これらのノイズのカノンは、奏者によって微妙に発音が異なるため、楽音のような固定的な旋律のカノンと違って、いわば構造のカノンのようなものなので、現出する響きのランダム性が多少は保証されています。さらに複雑な要素として、これらのノイズ・カノンは変拍子やテンポの変更を含むのですが、小節をユニットとして処理しているため、モチーフの語尾を削ったり、休符を足したりしながら伸び縮みする拍節感を演出するのです。更にもう一つ、最初の第1ヴァイオリン奏者が演奏するリズムは、16分音符の刻みです。これがランダムなリズム・カノンの軸になりますから、受け継ぐ後続楽器たちも16分音符の刻みから入るので、曲がおぼつくことなく、繊細なノイズでありながらも立体的な疾走感が冒頭から立ち上がるのです。

13小節目から、第1クラリネットが独奏的な役割で入ってきます。第1クラリネット奏者は、楽器をティンパニの上に設置あるいは膜近くの上方で演奏します。キーを開閉するノイズや息音が増幅されて聞こえます。アンドレが室内楽曲や独奏曲で培った楽器の用法が管弦楽作品でも生きていることが分かります。管弦楽において、ある楽器奏者がオーケストラ所有の他の楽器奏者の楽器を用いることは非常に問題視されます。作曲家はこのようなアイデアがある場合には、曲を書き始める前にオーケストラからの許可を得なければならず、勝手に書いても演奏を拒否されることも多いのです。ドイツの放送局のオーケストラは、その点で非常に柔軟な対応をしてくださることが多いです。新しい音楽を生み出すことに誇りを持っているようで、ドイツで活動していた時期はとてもありがたかったです。

クラリネットが開始して間もなく、トランペット、チューバ、バスフルート等の管楽器群が次々に入ってきます。それぞれに息音やキーノイズ等の繊細なノイズを演奏します。打楽器も時を同じくして入ってきます。管楽器群に比べ、やや実体を伴う音が入ることで、少し音楽に生命が宿ります。弦の擦音は次第に収束し、ハーモニクスの繊細な弦の音に移り変わっていきます。53小節でセクションが終わる時、フルート、クラリネット、ホルンがごくごく弱奏のロングトーンを演奏することで、次のセクションの幕開けとなります。

54小節目からは、伸び縮みするパルスの打撃によるリズミカルな音楽になります。小節は内部で分割されることなく、それ自体がビートの役割になります。従って、演奏する人たちは常に指揮が一拍目を振り下ろすダウンビートに揃えて音を出し、なおかつめまぐるしく変わる変拍子なので、指揮者が気まぐれに振り下ろす腕に伴って轟音ノイズが楽団全体から立ち上がるような、面白い演出が聴かれます。弦楽器奏者は固いピックで弾き、管楽器奏者はタングラムで低い打楽器的な音を奏します。その後、同じリズム効果ですが、響きが和らぐのですが、そこでは管楽器奏者は休止し、弦楽器奏者は4本の弦を押さえては勢いよく離す特殊なピッツィカート効果で、弾く瞬間の音を伴わないような柔らかい美しい響きで収束していきます。

その後、管楽器の不協和音のコラールがピアノやハープの打弦音に楔を打ち込まれながら美しく響き、それと交替して弦楽器群がピックでミュートされた4弦を激しくアルペッジョで弾く、極めて打楽器的な響きが対照されます。そして、237小節から318小節まで続くセクションでアンドレの管弦楽法の極致を聴くことができます。様々に折り重なる楽音とノイズが、じわじわと響きを変えて長く伸びて行くのですが、それはあたかもガラス細工にきらめくプリズム光のようです。楽譜の中でじっくり何の楽器と何の楽器が関係性を持って混ざり合ってその響きになっているのかを探すのですが、あまりにも込み入った複合的な管弦楽法で、その正体はおいそれとは姿を現せてくれませんでした。一つ言えることは、3人の打楽器奏者が神経質にティンパニのペダルや倍音を操作して、他者との関係を作る基礎を担っていたことです。

この先は、前述の通り再び弦楽器のリズム・カノンが、ピックによる奏法で聴かれます。その際、次第に管楽器がロングトーンで入ってくるのですが、パチパチ弾ける弦の音の奥に、じんわり滲む半音階のような下行グリッサンドのようなぼんやりした線が除いているようで、気持ち悪くも美しい音楽になっています。

セクションごとに目紛しく変わる管弦楽法が特徴的な音楽なのですが、各セクションの時間の推移はゆったりとしていて、尋常でない響きの美しさをじっくりと聴かせてくれる音楽です。もう一度この作品の実演を聴きたいと願っています。日本で、この作品をいつか聴ける日が来るでしょうか。扱い辛い楽譜と感じ、真面目に読んだことがなかったのですが、今回読んでみて大いに創作意欲を刺激されました。

*) カノンとは、複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する音楽様式です。

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