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楽譜のお勉強【83】アルベール・ルーセル『蜘蛛の饗宴』

アルベール・ルーセル(Albert Roussel, 1869-1937)は西洋クラシック音楽の中でも人気の高いフランス近代音楽の作曲家です。ドビュッシーやラヴェルのように、今日の演奏会で尋常じゃない頻度で演奏される作曲家がいる一方で、そこまで演奏頻度が高くない作曲家にも優れた人たちがたくさんいます。ルーセルは多くのフランス近代の作曲家の中でも頭ひとつ抜けた存在で、ドビュッシー亡き後、ラヴェルと並びフランスの音楽シーンを牽引しました。特に室内楽作品は重要で、フランス音楽史における金字塔に数えられる作品をいくつも残しました。私も個人的に好きな作曲家で、特に彼のピアノ協奏曲は私が好きなピアノ協奏曲のベスト10に入ると思っており、もっと演奏されてほしい曲です。本日は彼の交響的断章『蜘蛛の饗宴』作品17(«Le Festin de l’araignée» Fragments symphoniques, op. 17, 1912)を読みます。

『蜘蛛の饗宴』は元来2部からなるバレエ音楽で、演奏時間も30分以上あります。しかし今日、このバレエ音楽が全曲を通して演奏されることは極めて稀で、時々この「交響的断章」が演奏されることがあります。バレエ音楽の一部を演奏会用に編むことは珍しくありませんが、多くの場合それらは「組曲」と呼ばれます。ただしルーセルのバレエ音楽は、他の多くのバレエ音楽と同じように短い音楽がたくさん集まって構成されているものの、切れ目なく演奏されるもので、「交響的断章」もこの形式を踏襲しています。「交響的断章」ではバレエ音楽の全13曲中7曲が用いられていますが、流暢に継がれているため、「組曲」と呼ぶのは相応しくなさそうです。一応演奏される音楽を示すと、「前奏曲」、「アリの入場」、「蝶の踊り」、「カゲロウの羽化」、「カゲロウの踊り」、「カゲロウの葬送」、「寂しい庭に夜の闇の訪れ」となっています。

編成は2管編成で、フルート2(セカンドはピッコロ持ち替え)、オーボエ2(セカンドはイングリッシュ・ホルン持ち替え)、A管クラリネット2、バソン2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、打楽器(大太鼓、シンバル、小太鼓、トライアングル)、チェレスタ、ハープ、弦楽器5部です。演奏時間は15~17分程度で、バレエ音楽の半分くらいのボリュームです。

『蜘蛛の饗宴』が作曲された1912年はドビュッシーによる印象主義音楽の影響が音楽界を席巻していた時代でした。特にドビュッシーを輩出したフランスでは、印象主義的音楽の影響を全然受けていない音楽を探す方が困難のように思えるほどです。ルーセルは後年、古典的形式感を大事にしつつ、フランス風の和声でありながら重厚な響きを作り出す独自の作風に至ります。印象主義への反発として台頭してきた新古典主義とも違う独自路線で、孤高の作風を示すのですが、『蜘蛛の饗宴』ではまだ印象主義的な表現も多いです。響きが宙に浮くような平行和音も見られますし、調性の扱いも相当曖昧にしています。ただし、印象主義の音楽は無調の音楽ではありません。どれだけ曖昧にしても、かろうじて調性を判別できる箇所は残しています。

調性感に関して『蜘蛛の饗宴』の「前奏曲」を例に見てみると、調号はシャープがひとつ付いています。普通に考えるとト長調もしくはホ短調ですが、それが確定するカデンツはどこにも見当たりません。ギリギリこれかと思えるのが、「前奏曲」のちょうど中間くらいに出てくる、下行半音階の最後にG音で終止する箇所です。和音はなく、Gの音で呼吸を整えるだけですが、これを持ってト長調の思惑がないわけではない、とも言えるかもしれません。ではどのような考えで和音が作られているかというと、チェロでバスに、D音が伸びており、それにフルートがH、D、Fisの音を軸にしながらハ長調の和音と行き来して揺れるメロディーを歌います。ロ短調を思い浮かべ、Hフリギアの旋法かと早合点してしまいそうになりますが、それもどうやら考え方が違います。高音弦楽器によるゆらゆら揺れている伴奏型を見ると、さらにH、D、Fisの他にA、C、E、Gが見られます。ロ短調の主和音から3度を堆積していく和音になっています。しかし、低音和音を見ると、また違った様子が見られます。チェロのDの下にコントラバスがピツィカートでG、Cと下方に広がる波を作ります。これは下方に5度を堆積しています。ヴィオラはAとCで波を作っていますが、AはチェロのDの5度上にあり、Cは上方に広がる3度堆積和音を示唆します。このヴィオラ声部が高音弦楽器群と低音弦楽器群を繋いで、全体としてふわふわと不可思議に浮かぶ響きの雲を作っているのです。調性感を損なわずに調性が確定しない3度堆積の和音は、後期ロマン派の作曲家でもブラームスなどが最後期に試みています(『間奏曲 Op. 119-1』など)。和声学では機能が重要視されるため、和音の機能を意識して作曲することが多いのですが、後期ロマン派の作曲家も機能を緩く捉え始め、響きの中で作曲する志向を示している点は興味深いと思っています。

「前奏曲」ではもう一つ、重要な要素があります。最初にフルートで提示される旋律ですが、2小節から成り、これを雑に分けると前半と後半に分けることができます。後半はもう少し細かく小モチーフに分けることができますが、前半は付点二分音符の同音が2打で、旋律的要素は乏しく、展開の可能性が極めて限定されるモチーフです。リズムも、後半部分と結合しなければ長短がなく、独立して小モチーフと呼んで良いのかどうかも伝統的な考えからすると危ういです。しかし、ルーセルはこのモチーフを「前奏曲」中で執拗に使います。和音が移ろっていく箇所などで、ハープで奏されたり、オーボエで奏されたり、ヴァイオリンで奏されたりしながら、全体として前奏曲を通して印象に残るモチーフに昇華しているのです。響きを作曲の重要かつ主要な要素として考えるようになった近代以降の音楽らしいモチーフ処理と言えます。

「アリの入場」はルーセルの作曲における特徴的な要素を示しています。異国情緒溢れる快活な旋律の音楽です。ルーセルは若い頃にインドシナ近海で働いていたことがありました。このことは彼の音楽に多大な影響を与えています。異国風の素材を用いて曲の一部を作曲することは、彼にとって生涯続く作曲上の興味となります。フランスは伝統的に異国趣味の音楽が根付いており、バロック時代からアジアにインスパイアされた音楽がよく書かれていました。その意味で、ルーセルもフランスらしい作曲家だと思います。彼の交響曲に見られるような重厚な表現から、あまりフランス風ではないとも言われることもあるのですが。

続く「蝶の踊り」はバレエ音楽らしい素朴なワルツから始まります。フレーズも速いテンポの2小節区切りが多く、バレエのステップを大いに意識したものです。中間部でテンポと拍子が変わり、フルートとヴァイオリンが跳ねるような伴奏型を高音で歌うところが面白いのですが、この後に続くオーケストレーションは素晴らしいです。弦楽器とバソンのユニゾンで一息ついたあと、同じ伴奏音型を今度はピッコロとオーボエが担います。少しするとフルートも入ってきて、クラリネットなどにも受け継いでいきます。最初にピッコロとオーボエのデュオにしてあるところが粋です。音色の統制の観点から、油断するとピッコロとフルートで初めてしまいそうなところです。オーケストレーションも薄い箇所ですし、このような軽やかな表現をオーボエに任せると目立ちすぎないかと不安になります。しかし音にしてみるとクラリネットのメロディーとのバランスもよく、しっかりとした芯を聞くことのできるオーボエが入っていることが滑稽味に繋がっていて、軽やかさも失いません。楽器の特性をよく捉えたオーケストレーションです。

「カゲロウの踊り」では素早い弦の32分音符、フルートとオーボエのヘミオラが絡まって、水を張った紙に水彩絵の具を軽やかに飛ばしてポツポツと滲んでいくような効果を面白く聞きます。このリフは長くは続きませんが、波打つ弦の伴奏に乗ってヴァイオリン独奏が軽やかなメロディーを奏でる音楽に続き、充実しています。音楽はさらにテンポ感を増していきますが、最後に冒頭の「前奏曲」と同じ音楽の世界に回帰して、曲は終わります。

「前奏曲」の冒頭の和音の作り方を長く説明しましたが、この作り方は曲の中でも何度も用いられています。コンセプチュアルとも考えられる和音の作り方で、現代音楽の響きではありませんが、今日の作曲家の音楽に見られる音選びのシステムにも通ずる感性を見ます。現代の音楽は、いろいろな昔の音楽の規則から基本的には自由であることが前提で、作曲家たちは音の選定にかなり苦労していることが多いです。システムを作ることがひとつの解決策ですが、システムによる作曲は倦怠感を伴うことも多く、場合によってはとても苦しい作曲にもなります。どのように音を整理して、何をどれくらい自由に処理するのか、今日的な視点から考えても示唆に富む読譜となりました。


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