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檀原実奈評 キャサリン・レイシー『ピュウ』(井上里訳、岩波書店)

評者◆檀原実奈
無かったことにされた者の声は――散文詩のようなラストシーンを読者はそれぞれどう受けとるだろうか
ピュウ
キャサリン・レイシー著、
岩波書店
No.3617 ・ 2023年12月02日

■ある朝目覚めると、そこはアメリカ南部の教会だった。問われても自分が何者かわからない――名前も性別も人種も。やむなく主人公は目を覚ました信徒席を意味する言葉で〈ピュウ(pew)〉と呼ばれる。自身について語ることはないが、逆にピュウに対する反応や言葉、そしてピュウが持つ異星人のような観察眼から、周りの人々の深奥が浮き彫りになる。まるで実在する調査機関のピュー・リサーチ・センターを擬人化したかのようだ。
 たとえば、目覚めてまもなく目にした女性ヒルダのことを〈母親と呼ばれる種類の人〉と認識する。ピュウが目覚めた場所が自分たち家族の信徒席だったことから、しばらくヒルダの家で引き取ると決めた。ヒルダは良心的に信徒らしく支援をするはずだったが、正体不明のまま話をしないピュウに苛立ちを募らせ、ついには追い詰められて涙する。というのも、ヒルダは継母の肌や髪の色が大半の住民と違うことで、自分たちがコミュニティから疎外されぬよう長年苦心してきたのだ。
 かたや心理カウンセラーのようなロジャーは患者の扱いで絵を描かせる。話す代わりに白いサギの絵を描いてみせたピュウに、今度はその絵を描いたときの気持ちを描くようにと奇妙な指示を出す。
 少年部担当司祭ソニーの部屋にはキャンディを入れたボウルが幾つも置いてある。司祭はそれを頻繁に手づかみで口に入れ、階下で練習中の聖歌を聴いてひとり心酔する。
 大邸宅に暮らすキティはハイテンションで家庭を切り盛りするが、何も話さないピュウには暗いトーンで愚痴をこぼす。
 先にキティの家に引き取られた元難民の少年ネルソンだけは〈おまえの正体なんかなんだっていいよ。おれは気にしない〉と言う。ピュウと同じ茶色い肌を持ち、神の名のもとで家族を皆殺しにされ、この地域で保護されている。だが周りを心底信用してはいない。
 みんながあなたのことを心配していると何度も言われるが、それはピュウのためというよりもコミュニティの安全のためだろう。思い通りに人助けができない信徒たちのなかには、ピュウを洗礼してしまおうと提案する者もいる。年に一度の重要な〈赦しの祭
り〉がピュウ発見の六日後に迫り、それまでに決着をつけねばならない。出した結論は、町の黒人側コミュニティにピュウを預けることだった。
 ピュウが何者なのかという問いに、読者には思わぬヒントが与えられる。ピュウのかすかな記憶では、窓がなく湿った床の横幅三歩縦幅二歩の小部屋に、飢えた子が独りでいた。これは本作のエピグラフに引用されたアーシュラ・K・ル=グウィン作『オメラスを去る人たち』のなかで、性別不明の子が閉じ込められた地下室の描写に酷似する。ピュウは町の平穏を保つために犠牲となった声なきマイノリティの化身なのか。または作中のオルモス郡失踪事件の被害者なのか。ヒルダの家の屋根裏部屋では鍵をかけられる。
 読むうちに近年のアメリカ社会の出来事を思い起こした。二〇一六年のトランプ大統領勝利を支持したのは、おもに南部白人労働者層だった。過度に保守的で移民や異教徒を怖れ、銃を手放さなかった。ヒルダは暗唱するように〈銃は神の力の象徴であり、神が人間に賜った豊かな贈り物の象徴です〉と言う。コロナ禍元年である二〇二〇年五月のジョージ・フロイド事件を機に拡大したブラック・ライブズ・マターの声は、奴隷制度からの人種差別問題が地下水脈のように現在まで続いていたことを世界に知らせた。この数年数十年前から繰り返し同様の事件が起きていた。後半でピュウが抱く〈だれかが別のだれかの首根っ子を押さえて離さず……(中略)……この体はすでに死んでいる〉という思いは偶然にもフロイド事件を連想させる。
 幼い子どもには参加が許されない祭りの場面がグロテスクだ。町では過去に人種をめぐる悲惨な事件が起きていたらしい。オメラスの地下牢の秘密が、一定の年齢になるまで子どもたちに説明されなかったことに似ている。
 アメリカは多民族国家で本音と建て前の落差が激しく難しそうだ、などと他人事ではいられない。何度か日本のムラの話に思えてゾッとした。長い間フタをしてきた差別の歴史。弱者への加害。入管施設での悲劇。コロナ禍での不寛容。ピュウはヒルダを見て思う。〈自分はこんなにも善良だと思いながら、実際はどれだけの害をなしているのだろう〉
 散文詩のようなラストシーンを読者はそれぞれどう受けとるだろうか。うわべだけの秩序を保つために無かったことにされた声を聞けたとき、偽物の儀式をあとにする勇気が与えられるのかもしれない。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3617・ 2023年12月02日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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