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信藤玲子評 ジョセフ・オコーナー『シャドウプレイ』(栩木伸明訳、東京創元社)

影にとりつかれたブラム・ストーカーはいかにしてドラキュラ伯爵を作りあげたのか――史実と創作が織りなす光と影の物語

信藤玲子
シャドウプレイ
ジョセフ・オコーナー 著、栩木伸明 訳
東京創元社

■男は夜の散歩を好んだ。切り裂きジャックに街が支配され、何百万もの人々が恐怖に打ち震えるなか、劇場を閉めたあと、ひとりストランドを歩いてイーストエンドへ向かい、エクセター・ストリートからホワイトチャペルへ進む。
 男は影を求めてこの街に渡ってきた。作家として成功する夢を抱きつつ、「ケルトの薄明に浸っている者たちには影絵芝居が欠けている」と祖国に本物の悪漢芸術家が存在しないことに物足りなさを感じていた。そんなとき、劇場の暗闇のなかで「さあ、魔法が働く夜の時間の到来だ」と大きな口を開いて台詞を発する役者の姿を見た。観客が悲鳴をあげると、役者は絶叫で返した。男は役者に誘われるまま、安定した官吏の仕事を捨てて祖国を離れ、影絵芝居の世界に身を投じた――
 その男とは、『ドラキュラ』の作者として知られるブラム・ストーカーである。『シャドウプレイ』は、ストーカーがアイルランドからロンドンに渡り、名優ヘンリー・アーヴィングが主宰するライシアム劇場の支配人として働きながら『ドラキュラ』の構想を練った日々に焦点を当てている。日記、書簡、電報などを駆使して、ロンドン市民を襲うドラキュラ伯爵とハンターたちとの戦いを臨場感たっぷりに描いた『ドラキュラ』の手法に倣って、本書もストーカーの日記という体裁をとりつつ、書簡や回想を随所に挿入して、傍若無人なアーヴィングと翻弄されるストーカーの愛憎をじっくりと掘り下げている。アーヴィングがバーナード・ショーの悪口を言う場面や、アイルランド時代からストーカーと因縁があったオスカー・ワイルドが登場するくだりも興味深く、十九世紀末のヴィクトリア朝で花開いたロンドンの社交界が目の前でくり広げられているような気分を味わえる。
 アイルランド生まれで英語圏のベストセラー作家であるジョセフ・オコーナーは、母方の祖母の先祖が夜歩きを趣味としたストーカー本人を知っていたため、以前からストーカーに親近感を抱いていたという。アイルランドが輩出した文豪の多くは祖国への郷愁を綴ったが、ストーカーはまったく異なるモティーフを描いたという点にも興味を持ったそうだ。作者の覚え書きにも記されているとおり、『シャドウプレイ』はあくまで小説であるが、『ドラキュラ』にまつわる史実と作者の創作が合わせ鏡のように反転し、光と影のように互いをひきたてている。
 こんなふうに紹介すると、『ドラキュラ』を読んでいないと楽しめないのではないかと危惧する読者もいるかもしれない。一級のエンターテインメント小説である『ドラキュラ』と同様に、『シャドウブレイ』もまったく予備知識を持たず、ただ物語の世界に身を委ねるだけでもじゅうぶんに楽しめる。『ドラキュラ』やシェイクスピアから多く引用されているが、訳者による詳細な注釈があるため問題なく理解できる。『シャドウブレイ』を先に読んで、ストーカーとアーヴィングの関係に思いを馳せてから『ドラキュラ』を読むのも一興だろう。
 物語が進むにつれて、ストーカーとアーヴィングの緊張が高まっていく。アーヴィングは役者として強烈な光を放てば放つほど、自身の影が濃くなっていく。ストーカーはアーヴィングの影にひきつけられ、ドラキュラ伯爵を作りあげることに成功する。ふたりは影にとりつかれた共犯関係を築きながらも、ともに光を強く欲していた。エレン・テリーという光を。実在した女優であるエレン・テリーは当時のロンドンで高い人気を誇り、ライシアム劇場でアーヴィングとともにシェイクスピア劇を演じていた。気高い美しさと自由な精神を持ち、自分の文学を理解してくれるエレンに妻子あるストーカーは許されない恋心を抱くようになる。「ブラムはハリーをありのままに受け止めることができたのよ」とストーカーとアーヴィングの関係を俯瞰する彼女の「声」が挿入されることによって、物語の世界に一片の光が差しこまれる。
 ヴィクトリア朝が終わって二十世紀になり、物語の幕がおりる。終章ではストーカーとエレンの一日が時々刻々と描かれる。アイルランドが生んだ二十世紀を代表する作家、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の手法である。ストーカーはロンドンの老人ホームで慎ましく暮らしている。唯一の楽しみは、映画館の暗闇に身を投じることだ。かつてアーヴィングは「君も俺も死んでからずっと後に、喉が渇いたあの伯爵は世界中で有名になる」と語ったが、あの伯爵はすでに忘れ去られてしまったように思える。ライシアム劇場での日々も遠い幻のようだ。一方、映画にも出演するようになったエレンは、ある用事のためひさびさにロンドンに向かう。ふたりは再会できるのだろうか? そして『ユリシーズ』がある人物の声でしめくくられるように、この物語もこれまで影となっていた人物の声でしめくくられる。ストーカーが追い求めた光と影を見事に描いた一冊である。
 (翻訳者/ライター/大阪翻訳ミステリー読書会世話人)

「図書新聞」No.3646・ 2024年7月6日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。



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