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岡嵜郁奈評 キャサリン・マンスフィールド『アロエ』(宗洋訳、春風社)

評者◆岡嵜郁奈
百年を経てなお生き残る作品とはどんなものか――百年前に早世したニュージーランドの国民的作家、キャサリン・マンスフィールドの初邦訳作品
アロエ
キャサリン・マンスフィールド 著、宗洋 訳
春風社

百年を経てなお生き残る作品とはどんなものか――百年前に早世したニュージーランドの国民的作家、キャサリン・マンスフィールドの初邦訳作品

■百年前に早世したニュージーランドの国民的作家、キャサリン・マンスフィールドの初邦訳作品である。まず長編小説として書かれ、その後、短編「プレリュード」に書き換えられて発表された。死後、夫で批評家のジョン・ミドルトン・マリーが編集、中/長編『アロエ』として出版したため、他の作品とは位置づけが異なる。本書もまずマリーの短い解説から始まり、執筆の際、マンスフィールドが挟んだメモが三つ、本文にそのまま残されている。“珠玉の”と形容される短編「幸福」や「ガーデン・パーティ」に比べるとドラマ性に欠けるが、その分、作風は軽やかで瑞々しい。長年のファンにとっては、繊細かつ洗練されたマンスフィールド作品の原点に触れ、未読の者にとっては、百年を経てなお読み継がれる作品世界への良き出発点となり得る小説である。
 舞台は作者の故郷ニュージーランド、都会から田舎へと引っ越す一家族の数日間を描く。中心となるのは次女ケザイアだが、他の家族や使用人、登場人物すべてに焦点が当たる。このバーネル家は「プレリュード」には勿論のこと、続編ともいえる「入り江にて」や他作品にも登場する。作者の家族がモデルとなっており、『アロエ』も子供時代の実体験を基に書かれた。
 とくに何が起こるわけではない。人の記憶が再生されるときのように、いくつかの印象的な出来事が連なり、その時々の感覚、感情がよみがえるさまを、登場人物の姿、仕草、動きを子細に描くことで、語り手は鮮やかに再現する。特筆すべきは、視点の巧みな転換である。
 「モーゼズはにやっと笑い、ケザイアが座ろうとしたときにお尻をつねったが、ケザイアは気づかないふりをした。男の子ってなんて嫌な生き物なんだ!」 
 地の文に混ざって不意に“声”がする。その持ち主は語り手なのか、ケザイアなのか。この“声”によって視点が外から内へと反転し、読み手は語り手/ケザイアの声を直に聞く。マンスフィールドはこの転換を“魔法”のように使う。“声”によって読み手は物語の内へと引き込まれていく。
 キャサリン・マンスフィールドは一八八八年、ウェリントン生まれ。裕福な家庭に育ち、一五歳で姉妹と共に英国へ留学、その後一旦帰国するも再び単身英国へ渡るが、結核を患い、そのまま故国の地を踏むことなく一九二三年に三十四歳で亡くなった。『アロエ』の執筆期間は一九一五年から一六年にかけて。その間、マンスフィールドは第一次世界大戦で、最愛で唯一の弟を失う。
 出征前に二人で語り合った故郷の思い出、「二人が生きていた素晴らしい時間」を残す、その想いで完成された『アロエ』には果たして、かつての世界が生き生きと再現されている。「家からは奇妙で美しい興奮が震える波紋のように溢れ出していた。屋根やヴェランダの柱や窓のサッシに、月が彼女のランタンを振っていた」。
 風景や身の回りの存在の描写は詩的で叙情的でありながら、読み手の肌に感覚が伝わるかのようだ。世界の隅々にまで作者のまなざしが行き渡り、作品には有機的な力が満ちている。
 “どこかにこの世界は実在する”。マンスフィールド作品を読むと、そんな感覚にとらわれる。読後、心に漂う確かな余韻は、読み手が作品世界の時空間に同期し、物語を体感した証とは言えないか。かつて在った世界をただ文字で写し取っただけではない、その核に何か生命を有する種のようなものがあり、種からくり返し同じ花が咲くように、読むたびに同じ物語が鮮やかに甦る。書かれていることに何一つ変化はない。だがいつも新鮮な驚きがある。長く読み継がれる物語に共通するのは、この有機的な再現性なのではないか。
 他とは成り立ちを異にする本作は、これまで広く繰り返し読まれてきた作品ではない。だが弟の死を経て書き上げられたこの物語には、読み手に生の手触りを思い起こさせる世界が、「今、ここ」に存在している。そこへ行けば、あの晴れた空が広がり、ケザイアの声が聞こえる。一回性の生しか持たない私たちにとって、物語は記憶を好きなだけ再生することのできる装置なのだ。
 遠い夏の日、緑あふれた故郷の中心に在るのが、「棘のある灰緑色の分厚い葉をつけた巨大な丸い植物」、アロエである。そのアロエを見上げながら、ケザイアが母に訊く。
 「花は咲かないの?」
 「咲くわ」と母は微笑みながら言う。「百年に一度ね」。
(翻訳者/語学講師)

「図書新聞」No.3628・ 2024年02月17日に掲載。

https://toshoshimbun.com/

「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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