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玉木史惠評 メアリ・ノリス『GREEK TO ME――カンマの女王のギリシャ語をめぐる向こう見ずで知的な冒険』(竹内要江、左右社)

愛しいギリシャ――ちんぷんかんぷんな人生の救世主

玉木史惠
GREEK TO ME――カンマの女王のギリシャ語をめぐる向こう見ずで知的な冒険
メアリ・ノリス 著、竹内要江 訳
左右社
愛しいギリシャ――ちんぷんかんぷんな人生の救世主
■推薦するという意味の「推す」から派生した「推し」は、熱心に支持する対象を表す俗語として日常的に使われる。 雑誌『ニューヨーカー』で校正者として二十四年間勤務し、カンマの女王として知られる著者メアリ・ノリスの「推し」は、アイドルでもゲームアプリでもなく、地中海のギリシャ共和国だ。「わたしはギリシャにまつわるあらゆるものの虜になった」(十七ページ)と述べる著者が、どのようにしてギリシャにハマり、どれほど愛し、どんな意味をもつのかを綴った本書は、著者の「推し活」の歴史だ。 きっかけは一九八二年に観たSF映画『バンデットQ』だった。著者はショーン・コネリーがギリシャ神話の英雄アガメムノンを演じる雄姿を見た途端、ギリシャにハマった。その翌日、『ニューヨーカー』の上司であるギリシャ通のエドが、ギリシャ語の文章を翻訳するのを目の当たりにして驚愕した。ギリシャ語は、It's Greek to me.(ちんぷんかんぷんだ)という慣用表現があるほど英語話者にとって難解だとされている言語なのだ。ギリシャ語が読解可能な言語だと知った著者は、ニューヨーク大学やコロンビア大学で現代ギリシャ語のみならず古典ギリシャ語も学び、クイーンズ地区のギリシャ系アメリカ人街に移り住んだ。生きたギリシャ語に触れられる環境に身を置くためだ。アルファベット愛好家で、言葉を扱う専門家である著者の外国語学習法はユニークで徹底している。小文字で印刷された古典ギリシャ語の単語を大文字で書き写すという学習をし、悲劇『エレクトラ』の合唱隊として頌歌を歌った。『トロイアの女』の主役を演じるためにセリフを暗記した際には、セリフを貼ったインデックスカードを持ち歩き、プールで一往復泳ぐ度にセリフをひとつ記憶した。怒りのセリフを練習するときには、膝の上の猫がおびえるほど感情を込めた。休暇でギリシャを訪れ、ギリシャ人とその場限りのアバンチュールを楽しんだ。「ギリシャ気質を自分に染みこませてギリシャ人になれたらいいのに。せめて、ギリシャ人とまちがえられるぐらいにはなりたい」(七〇ページ)と述べる著者には、彼女自身の内から湧き出る言語学習への強い意欲がみなぎっている。それは、言語学習を成功に導くintrinsic motivation(内発的動機づけ)だ。そのモチベーションが長年にわたる言語学習を支え続けたことは疑う余地がない。 三十年以上にわたって、著者はギリシャへの旅を繰り返した。旅行を始めた初期の頃は一カ所に長居をせず、島から島へと飛び移った。好きになってしまった相手を早く知りたい、もっと知りたいという気持ちが抑えきれないような旅だ。文句なくギリシャは美しい。だが、ギリシャに匹敵する美しい国は他にもあり、世界で使われている言語にはどれも独自の魅力がある。それにもかかわらず、著者の「推し」はギリシャでなければならなかったのだ。 一九五二年生まれの著者は、家事をこなす母親を女性のロールモデルとし、聖母マリアを聖なるモデルとして、カトリック信仰を持つ家庭で育った。子供を産み育て、家事を担い、夫に仕えるのが女性の役割だった。六十年代に始まった女性解放運動(ウーマンリブ)の声は、故郷のオハイオ州クリーブランドには届いていなかった。「女性という存在は不完全であり、まちがっていて、何かが不足している」(一七三ページ)と思い込むようになった。だが、ギリシャを愛するようになった彼女は、自分でも気づかないうちに女神アテナを人生のロールモデルに置き換えていた。男神に頼らず、家庭にも縛られず、アテナは「解放された女性の原型」(五十三ページ)で、「自分の才能を賢く活用するお手本」(五十四ページ)だ。決してこびたり人の機嫌を取ったりしない、まっすぐな存在のアテナは、校正係という職業人のよきモデルにもなった。 母親以外にも人生のモデルがいると教えてくれたのはアテナばかりではない。女神デメテルの娘コレーは冥界王ハデスに強姦されて結婚し、冥界の女王ペルセポネになった。強姦によって処女は死に、そこからの女王誕生である。生はいずれ死に道を譲り、死はいずれ生に道を譲るのだ。この「大いなる循環」(一一〇ページ)の概念を知り、「自分の役割を処女か花嫁か母親に限定しなくてもいい」、「自分らしく生きていけばいいんだ」(一二九ページ)と気づくことになった。そして、幼くして亡くなった兄の死に抱いていた罪悪感からも解放された。 弟が性別移行したときには、共有していた過去も拒絶されたかのように思い、弟は死んでしまったと感じていた。しかし、王である叔父の命に背いて兄の埋葬を行った罪で死刑になった『アンティゴネー』の壮絶な経験を読んで、女性になった弟に対する気持ちと折り合いをつけることができた。文芸の父として仰ぐ作家パトリック・リー・ファーマーを知ったのもギリシャを通してだった。著者はギリシャによって過去を捉え直し、精神的な支えを得て進むべき道を発見することができたのだ。 自信を持ってまっすぐに、責任を持って歩いて行こう。It's Greek to me.(ちんぷんかんぷんだ)と思っていた人生の救世主は、他ならぬGreek(ギリシャ語)でありGreece(ギリシャ)だった。「詩神よ、ギリシャにまつわるあらゆることをわたしのなかで歌いたまえ」(五ページ)という著者の祈りが聞こえる。それは、過去も現在も未来も救世主でありたまえと願う希求の祈り(invocation)である。(英語講師/翻訳者)

「図書新聞」No.3632・ 2024年3月23日に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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