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柳澤宏美評 ハリー・ムリシュ『襲撃』(長山さき訳、河出書房新社)

評者◆柳澤宏美
個人が過去や歴史と向き合うとはどういうことか、を考えさせる物語――最後にはハッとさせるような事実がわかる
襲撃
ハリー・ムリシュ 著、長山さき 訳
河出書房新社
No.3611 ・ 2023年10月21日

■第二次世界大戦が終わる直前の一九四五年一月の夜、オランダ・ハールレム郊外のヘームステーデで事件が起こった。運河沿いに建つ家の前で親ドイツ派の警視が射殺されたのだ。事件を巡る物語ということで、犯人は誰か、その時何があったか、といった真相に迫る探偵ものを想像した。もちろん真相を知ることが物語の大きな要素になっている。一方で、錬金術、神話、歴史などをイメージさせる要素が散りばめられていて難解であると同時に、個人が過去、あるいは歴史と向き合うとはどういうことか、を考えさせる物語と読んだ。
 物語は、主人公アントン・ステーンワイクの自宅とその横に並ぶ四軒の家を描写するプロローグから始まる。それぞれの家には名前が付けられ、ステーンワイク家は左から二番目の茅葺きの家だった。運河には棒を付きながら前進する舟、小型帆船、発動機船が進み、アントン少年は舟で働く人や水面の様子をじっと見ていた。運河の反対側には、住宅と農場があり、その向こうには牧草地が広がっている。牧草地の先にはアントンが移り住むことになる首都・アムステルダムがある。物語のなかでも言及されている十七世紀のオランダ画家、ヤーコプ・ファン・ロイスダールの絵画は、地平線が低く、空が画面の大部分を占めるのが特徴的で、国土の低いオランダならではの広がりを感じさせるが、文章からもそれが伝わってくる。ヘームステーデの家は、その後も何度か言及されるが、変わっていく部分と変わらない部分の描写が印象的だ。
 事件のあった時、アントンは十二歳だった。それから四十九歳になる一九八一年までの間の出来事が描かれる。襲撃事件で警視が死んでいたのが自宅の前であったために、兄は逃げ、両親は連行され、家は焼き尽くされた。アントンはドイツ軍によってオランダ警察署に連れていかれるが、軍も警察も混乱しているのか、明らかにとりあえずの処遇として、けがをした女性のいる独房に入れられる。暗闇のなかで顔も見えず、名前も告げなかったこの女性は幼いアントンに強烈な印象を残す。翌朝、両親はどこにいるのか尋ねても答えがないまま、アムステルダムにいる伯父夫婦のところに行くことが決まる。
 五月にオランダは解放され、ほどなく家族がどうなったかを知るが、その後占領時代の研究書を読むことも、博物館へ行くこともなく、アントンが自分で積極的に事件について調べることはない。同級生たちほど政治に関心も寄せず、何事に対しても受身なまま医学生になり、麻酔科医になり、家族を持った。だが、彼の人生の要所要所で事件はその存在を示す。終戦後、一度も行かなかったヘームステーデを訪ねた時、殺された警視の息子である同級生とデモのさなか偶然再会した時、義父の友人の葬式で事件に関わっていた抵抗運動活動家の男と出会った時、そして娘と共に再び自宅のあった場所に行った時。主人公にとって襲撃事件の記憶はかつての隣人たち、伯父夫婦、子供たちなどとの関係から呼び起こされるのだが、それはアントンだけでなく、終戦後の人々はそれぞれの事情を抱え、戦争に関して否が応でも思い出していたのだろう。そしてそれぞれのやり方で向き合っていたのだろう。「いい加減、あのひどい戦争の話は止めたらどうなの?」と義母は言い、「我々は皆、先延ばしにしてきたが、今になって問題が起きてくる。あちこちからそう聞いているよ」と義父は語る。常に受身の主人公だが、それでも徐々に事件の真相が浮かび上がり、最後にはハッとさせるような事実がわかる。
 「アントンはまだ過去についてじっくり考えるには若すぎて、新たな出来事が起こるたびに先に起こった出来事が押しのけられ、ほぼなかったことになっていた」というのは、事件当時、十三歳になる前の主人公の状況だが、毎秒のように情報が更新される現代においても、多くの人が同じ状況に陥っているだろう。だが、中年になったアントンが自分の過去に向き合っているのに対して、今は世の中のニュースを流れるままにして、まるですべてが他人事になり、自分の過去でさえ、真剣に対峙することに不慣れになってしまっていないだろうか。あるいは逆に勝手にすべてを自分事にして感情をあらわにしていないだろうか。時の流れを考えるとき、未来へ向かって進む、あるいは輪になって巡る、螺旋状に進むなどのイメージがあるだろうが、最後のエピソードで、アントンは未来へ背を向けて「過去から出来事が現在に生じ、消すことのできない未来へ向かうのを見た」という。後ろを振り返って過去を見つめることに思いをめぐらしたい。
(学芸員)

「図書新聞」No.3611・ 2023年10月21日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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