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竹松早智子評 ウィリアム・トレヴァー『ディンマスの子供たち』(宮脇孝雄訳、国書刊行会)

評者◆竹松早智子
平穏な町が隠す闇――些細な視線や動作、言葉や情景によって、文字の裏に記された思いに読者は想像をめぐらす
ディンマスの子供たち
ウィリアム・トレヴァー 著、宮脇孝雄 訳
国書刊行会
No.3599 ・ 2023年07月15日

■イングランド南西部のドーセットにある、ディンマスという架空の港町が本作の舞台だ。四月初旬、復活祭を控えたある水曜日、この町で暮らすクウェンティン・フェザーストン牧師と妻ラヴィニアのもとに、ティモシー・ゲッジが現れる。
 ティモシーはディンマスに住む十五歳の少年で、どこか変わった言動で周りの人たちから疎まれている。「復活祭の野外行事」で行われる「タレント発掘隠し芸大会」で一人芝居を披露しようと、牧師夫妻をはじめ、町の住民に協力を呼びかけているところだ。ティモシーは人懐っこく接しようとするが、芝居の内容は決して微笑ましいものではない。実在する殺人犯とその三人の被害女性を演じて笑いを取ろうというのだ。みな薄気味悪がって協力を拒むが、秘密をばらすことをほのめかしてしつこく迫る。ヘラヘラしながら「二人だけの話にしておきます」などと遠回しに言い、決して暴力的に脅すことはない。
 ティモシーが町の人たちの秘密を知っているのには訳がある。日頃から人のあとをつけたり、人の家を覗いたり、他人の葬儀に許可なく参列したりしているのだ。そこで暴力や欲望や死など、人に触れてほしくないことを目にしてきた。
 一人芝居にこだわるのにも理由がある。ティモシーはもっと幼いころから、家庭内でも拒絶され、孤独な生活を送ってきた。ある日、ふと別人になっておどけてみせると、周りが喜んでいる。そこで「道化」を演じれば、成功できると夢見たのだ。今自分が進んでいる道とも、多くの大人がたどってきた道とも違う、明るい将来だった。この夢を実現させたい一心で他人の秘密を突きつけているが、ますます周りから遠ざけられることになる。
 相手が大人でも子供でも、ティモシーは隙を見逃さない。巧みな言葉でさらに疑念を植え付ければ、苦悩はひとりでにすくすくと育ち、人の心は容易に動揺する。動揺はいつしか隠し事になる。秘密を守るため、人は醜態をさらし、嘘を重ね、他人を信用しなくなる。その崩壊の流れが詳細に描写される。町の人たちはティモシーに秘密を握られていることに苦しむ。その姿を見て、背筋が寒くなる。血は一滴も流れないが、誰もが痛み傷ついている。
 やがて人々は、ティモシーが他人を苦しめる理由を悪魔や家庭環境、「悪い巡り合わせ」のせいだと思おうとする。だからこんなおそろしい恐怖をもたらすのだ。そこでフェザーストン牧師はティモシーの内面にきちんと向き合おうと対話を試みる。だが、ティモシーの心はすでに閉ざされ、本当の気持ちを知ることはできない。
 ディンマスで悲惨な人生を送っているのはティモシーだけではない。それでも町の人たちには、厳しい現実を少しだけ和らげてくれるような、ささやかな喜びがある。ティモシーはそれすら奪われてしまっているのだ。だから嘘や空想で孤独という真実をねじ曲げ、創造した世界が現実だと思い込んで生きることしかできない。希望や喜びを見出せずに生きるのは、どれほど恐ろしいことだろう。フェザーストン牧師はそんなティモシーを「ちっぽけな災厄」だと考えるようになる。
 心の奥底に隠していた感情が「災厄」でかき乱されたとしても、いずれ混乱は治まる。遠目で見れば町の様子に大きな変化はない。だが、表面だけ取り繕っても、ティモシーという「災厄」が消えることはない。ディンマスの町はいつまでも闇を抱えたままだ。
 町の子供たちも、心に巣くう闇と対峙しながらやがて大人になるのだろう。ここで一生を終える者も少なくないはずだ。ティモシーが求めているのは、何の希望もない流れから、ただ抜け出すこと。復活祭当日、自分の声が届かない相手に嬉々として空想の世界を一人語り続けるティモシーの姿に、悲しみを覚える。だが、場違いなほど前向きな歌詞の歌が町中に流れる。
 著者のウィリアム・トレヴァーは一九二八年にアイルランドのコーク州で生まれた。大学卒業後にイギリスに定住し、一九六〇年代に作家活動を始め、二〇一六年に逝去した。短編の名手とされるが、本作のような素晴らしい長編作品も残している。トレヴァーの作品の中で印象的なのは冷静な観察力だ。様々な視点から淡々と事実を描く。本作においてもそれは健在で、些細な視線や動作、言葉や情景によって、文字の裏に記された思いに読者は想像をめぐらす。
 冒頭、中空から見下ろすように描かれたディンマスの町の様子は平穏そのものだ。物語の視点は徐々に町の人たちへと近づき、それぞれに複雑な感情が渦巻いているのが見て取れる。だが、心を閉ざしたティモシーからはどうしても本心をつかむことができない。笑顔で人の秘密を暴こうとしている裏で、心は何を叫んでいるのだろう。答えは明記されていない。それでも彼の言葉は、本当の自分はここにいるのだとたしかに訴えかけている。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3599・ 2023年07月15日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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