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江戸智美評 ハーン小路恭子『アメリカン・クライシス――危機の時代の物語のかたち』(松柏社)

評者◆江戸智美
ヴィジュアル・アルバムから湿地まで――新たな語りのかたち
アメリカン・クライシス――危機の時代の物語のかたち
ハーン小路恭子
松柏社
No.3594 ・ 2023年06月10日

■『アメリカン・クライシス』は、ウィリアム・フォークナーをはじめとするアメリカ文学・文化の研究者である著者が、過去三年間の研究成果をまとめたものである――と聞くと、研究者ではない一般の読者はなかなか手が出ないかもしれない。だが、目次を開くと最初に目に飛び込んでくる「ビヨンセ『レモネード』における暴力、嵐、南部」という第一章のタイトルで、俄然、触手が伸びるという人も多いのではないだろうか。
 二〇一六年に発表された世界的ポップシンガー、ビヨンセのヴィジュアル・アルバム『レモネード』はビヨンセ自身の個人的体験をベースに制作されたものだが、洪水や暴力といった歴史的に繰り返されてきた事象が映像として取り込まれており、アーティストの個人レベルの経験をさらに大きな文脈で捉え直すことができる、と著者は指摘する。アルバム中、暴力的な表現が最も顕著だという楽曲「ホールド・アップ」では、大量に溢れ出る水とともにビヨンセが登場し、野球のバットを振り回しながら歌い、車の窓を次々と割る。消火栓まで破壊した結果、噴き出す水も、アルバム内で繰り返し現れる嵐や洪水を想起させる。
 このビヨンセの暴力表現を、ブラック・フェミニズムの代表的批評家ベル・フックスが辛辣に批判した内容を、著者は丁寧に解説する。歴史的に黒人女性の身体に向けられた西洋のまなざしは、「暴力や性的な奔放さ、獣性といったネガティブなステレオタイプ」を固定化し、商品化してきた。ビヨンセの作品はそれを強化しこそすれ、解放する方向には向かわない。一方で著者は、女性ブルース歌手に関するアンジェラ・デイヴィスらの論考を紹介し、ビヨンセによる黒人女性の暴力的な表現は、単なる暴力賛美ではなく、「日常生活における暴力の偏在性そのもの」への批判という解釈の可能性を提示する。また、ブラックパンサー党を彷彿とさせるコスチュームを身に着けたダンサーたちのブラックパワー・サリュート(拳を突き上げる動き)に注目し、「黒人史のアーカイブの中から意匠や身体表現を取り出して」いると示し、さらにはヴードゥーの女神オシュンや、イボ族の奴隷の集団入水自殺という伝説にも言及するなど、次々と手札を繰り出し、ポップなヴィジュアル・アルバムをめぐる解釈を鮮やかに展開する。
 著者がいうように、反復される暴力の視覚的表現は、「表現された暴力を仮想的に経験し、それにより様々な現代の危機を理解し、分析する機会」を提供してくれる。先のビヨンセの表現を支持する若い世代のフェミニストも、新しい視覚文化に親しんでおり、その解釈においてフックスとは世代間の差が生じている、と著者は示唆する。ビヨンセの作品以外に、第三章の『ヒックとドラゴン』、第五章の『キャンディマン』のように、本書は文学作品だけでなくアニメーションやホラー映画といった映像作品も取り扱う。
 文学作品の批評に目を向けると、「レベル・ガールの系譜」と題する第二章は南部女性作家、カーソン・マッカラーズ、リリアン・スミス、ハーパー・リーを取り上げ、南部女性の典型「サザン・ベル」を理想とする文化に反逆する「トムボーイ」表象を分析する。映画『アラバマ物語』で「髪を短く刈り込み、オーバーオールを着こみ」、唾を飛ばしていた、まさにトムボーイの典型のような少女スカウトを記憶している読者も多いだろう。根強い家父長制が残る南部社会で、トムボーイを作品中に登場させた女性作家たちにとっては、書くこと自体が「反逆の文彩」であったと著者は述べる。マッカラーズ作品の新たな読みは、アメリカ文学史における南部女性作家の類似作品群の位置づけの再考をも促すという。
 第四章「エコロジーをダーティにせよ」はジェズミン・ウォードに焦点を当て、『骨を引き上げろ』(二〇一一)と『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』(二〇一八)を読み解き、現代南部における人間と自然の関係を考察する。著者は、この二作品における動物描写の重要性を奴隷制の歴史と関連させて論じる。ここで著者がアーカイブから取り出すのは「黒人女はこの世の騾馬だ」というフレーズだ。第一章冒頭でも言及された、ゾラ・ニール・ハーストンの『彼らの目は神を見ていた』(一九三七)に登場する台詞が時を超えて響いてくる。また、背景に潜むヴードゥーが「人種とジェンダーにおいて複層的な被抑圧者の位置を占める黒人女性たちに対するエンパワメントとしての側面」を持つと述べ、人間と動物が一体化する「憑依(possession)」をその具体例として挙げている。
 最終章はディーリア・オーウェンズ『ザリガニの鳴くところ』(二〇一八)を取り上げ、舞台となった湿地の独特の存在感を分析する。日本でも話題となった人気作品なので、その繊細で美しい自然描写に魅せられた読者も多いだろう。まるで生きているかのような湿地の存在感の源は著者のいう「エージェンシー」にあるのかもしれない。湿地は「人間の死に関与しつつ、人間的な倫理概念を欠いた視点」で語る存在なのだ。第一章で見たビヨンセが人為的に引き起こした街の洪水と、最終章で描かれる人間の気配の消えた湿地のイメージとの対比が興味深い。
 本書は、著者が序章で述べるように、対象作品の幅が広く、人種、ジェンダー、暴力、障害、環境など多様な危機が論じられている。読み進めるうちに繰り返し立ち現れるテーマや、各章が不思議に呼応する感覚に、現在の危機の複雑さを実感する。既読、既視聴の作品であれば、新たな視点による解釈の広がりに触発され、未読、未視聴の作品には思わず手を出したくなる――本書は、そんなふうに読者の世界を広げてくれる批評である。タイトル、小見出しのフォントの選択や、漢字の使用率を減らし、ひらがな表記を多くするなど、難解と思われがちな批評書の印象を和らげる編集上の配慮も感じられる。守備範囲の広い内容と相まって読者の間口を広げ、ひいては文学、文化に、そして社会が直面するさまざまな危機へと目を向ける契機をもたらしてくれるだろう。新たな「かたち」の批評書をぜひ手に取っていただきたい。
(大学講師)

「図書新聞」No.3594 ・ 2023年06月10日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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