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佐藤みゆき評 シェハン・カルナティラカ『マーリ・アルメイダの七つの月』上・下(山北めぐみ訳、河出書房新社)

主人公の人生とスリランカの闇が一つまた一つとあぶりだされる――2022年にブッカー賞を受賞した小説

佐藤みゆき
マーリ・アルメイダの七つの月 上・下
シェハン・カルナティラカ 著、山北めぐみ 訳
河出書房新社
主人公の人生とスリランカの闇が一つまた一つとあぶりだされる――2022年にブッカー賞を受賞した小説
■二〇二二年にブッカー賞を受賞した小説である。作者はスリランカ出身の小説家シェハン・カルナティラカ。彼にとって二作目となる長編小説であり、二〇一四年に書き始めてから執筆におよそ七年かけたという。
 舞台は一九九〇年、長引く内戦で混乱状態にあるスリランカの最大都市コロンボ。戦場カメラマンで無神論者かつ同性愛者のマーリ・アルメイダは命を落とし,霊となって冥界【はざま】で目を覚ます。死後の世界はあったのだ。冥界を仕切っていたのは次々とやってくる霊を指導しようとする自称ヘルパーたち。下界と同じで神がいる様子はない。死んだマーリはヘルパーから七回の月を見る間、則ち七日間の時を与えられる。その間に自分は何をすべきだろう。そもそもどうして自分が死んだのか分からない。途切れ途切れの記憶の中、スリランカに平和をもたらすことを夢見て撮影した秘蔵の写真があったことをマーリは思い出す。七日間のうちにコロンボで公開したい。でもどうやったらできるのか?
 全編を通して、主人公マーリを描写するのに使われるのは、「おまえ」という二人称だ。「おまえ」と語るその声は彼自身の内なる声らしい。試しに「おまえ」を「おれ」に置き換えて読んでみても意味は通じる。繰り返し耳に響く「おまえ」という声で、読者は自分とマーリを重ね、マーリの物語に引き込まれていく。
 冥界【はざま】と下界コロンボという二つの異次元の世界を軸に物語は進む。予測なくクロスオーバーする二つの世界。冥界【はざま】にいる霊は、自分の死体が通った場所と自分の名前を口にしている人の元にだけ風に乗って移動することができるのだ。霊として空中に浮遊しながら下界で現在進行中の出来事を眺めるマーリ。それを糸口に、これまでの彼の人生とスリランカの闇が一つまた一つとあぶりだされていく。ひりつくような皮肉を混じえながら。
 例えばベイラ湖。警察に雇われた死体処理人が、切断され、袋に入れられたマーリの身体を今まさに沈めようとしている。湖が放つ悪臭はこれまでにどれだけ多くの死体が投げ捨てられてきたのかを教えてくれる。警察は政府軍の少佐と繋がり、さらに少佐は司法大臣と繋がっている。どうやらマーリはまっとうな死に方をしなかったようだ。
 コロンボの警察署ではマーリに近かった人たちが、彼の捜索願を出そうといる。母親、親友ジャキ、そして同性愛者マーリの最愛の恋人DDの三人だ。警察は、すぐには動こうとしない。今日日行方不明者だらけなのだ。それでもマーリの父親がスリランカの多数派であるシンハラ人であったこと、DDの父親がタミル人として唯一の現閣僚であること、母親が賄賂を渡したことが功を奏し、警察は捜索を開始する。
 戦場カメラマンとしてのマーリと関係があった面々も登場する。タミル人の武装組織【虎】と長らく内戦状態にある政府軍の少佐。AP通信の記者を語る男と、英国大使館勤めの男の二人のイギリス人。内戦の犠牲者を救済する慈善団体を運営するタミル人。だが、いずれも虐殺や暗殺の仕掛人、武器販売人とそれを手助けする男、タミル人に有利な情報集めに奔走する女、といった裏の顔がある怪しい奴らだ。シンハラ人とタミル人のどちらに味方しているのかと聞かれると、マーリは、自分はスリランカ人と答え、彼らの要望に応じて写真を撮り、時に仲介役としてお金を受けとっていた。
 スリランカの惨状をシニカルな冗談で笑い飛ばし、恋人DDに嘘をついては様々な男性とその場限りの関係を持ち、危険な仕事で稼いだ金はギャンブルに使い、マリファナに頼ったマーリ。刹那的な生き様に見える。
 だが、彼がただ浅はかだったからではない。それはマーリがこれまで精神的に苦しく辛い人生を送っていたことの証でもある。離婚した両親との関係。自分の性的志向。繰り返される虐殺。失われていく命を戦場カメラマンとして目の当たりにしながら何も変えられない自分。自分の無力を感じ、心の中で自分を恥じていたのだ。深手を負って早く死にたがっている罪なき人々を最後には幇助までしてしまった自分には恐怖すらも感じていただろう。心が壊れる寸前だったはずだ。だから冥界に来た時のマーリの霊は深い哀しみを抱えていたのだ。消し去りたい数々の記憶を心の奥底に隠しながら。
 冥界には他にも様々な霊がいる。資本主義国家の打倒を目指し暗殺されたセーナの霊は、同志を募り、霊魂のみが使える技で正義の鉄槌を下し、下界に復讐することに燃えている。【虎】のテロ組織や政府の暗殺部隊による虐殺行為を暴く論文を書いて暗殺されたラーニー博士の霊は、下界での出来事はさっぱり忘れることにして今はヘルパーとして忙しい。虐殺の犠牲者となった霊の多くは心の平安を得られないまま、冥界【はざま】を長い間さまよい、人々の苦しみを餌にする悪鬼マハカーリーの餌食になっている。マーリの霊はこの先どうなるのだろう?
 コロンボではジャキがマーリの生前の言葉を頼りにDDと一緒に写真展に向けて動き出す。マーリのために奔走する二人。彼らが如何に大切な存在であったかにマーリの霊はあらためて気付く。
 読者はその後心洗われる場面に出会うことになる。マーリの霊は自分が持てる全てを投げ打ち、自らの行動で命の大切さを証明するのだ。そして傷ついていたそれまでのマーリの魂は救われていく。
 作品ではマーリが死んだ驚きの経緯も語られるが、ここでは敢えて触れないでおこう。
 カルナティラカは母国スリランカで繰り広げられた悲惨な出来事に長い月日をかけて向き合い、不条理な世界に生きる人間の醜さ、優しさ、弱さ、そしてあらゆる存在のかけがえのなさを、小説だからこそできる表現の自由さを持って描き出した。今日の世界を見回した時、私たちは震撼するはずだ。異を唱える者の存在を認めようとしない権力者。戦争の中で失われていく罪なき多くの命。生きる辛さを抱える者につけ込むような宗教。これらは全て現在の私たちが向き合うべき問題なのだ。
(英語講師/翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3632・ 2024年3月23日に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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