見出し画像

親父とオカンとオレ 10 〜ラフティング前編〜

 今回は僕がラフティングの仕事で徳島の山奥に住んでいた頃の話を書こうと思う。

 オーストラリアでプロのトライアスリートになると大見得を切って、旅立った。
 しかし、1年もしないうちに挫折して徳島の実家に帰ってきた。手持ちのお金は100万程になっていた。

 何かを始めなければと、焦る気持ちでいっぱいであった。
 オーストラリアで出会い、シェアメイトのニックという青年が、親子で大工の仕事をしていたのを見て、カッコいいと感じたのを思い出していた。

 友達に高田という、親子で大工をしている同級生がいた。ある日、その彼を訪ね
「大工の仕事ってどんな感じなん?」
と聞いてみた。すると彼は
「年季と呼ばれる修行期間があって、その間は小遣い程度しか給料は出ないよ」

 高田は4年程の年季が明けて、独立し2年目だと言う。中学生の頃は、小柄でひょろっとした感じだったが、筋肉がつき、とてもたくましく見えた。

 高田は年季奉公2年目の時に、同じ中学の同級生の石井を大工に誘っていた。ちょうどその彼の年季が明けるので、親方には弟子がいなくなるという。

 しばらくの間、考えたが結局、高田の家に行き
「弟子にして下さい」
と言って同級生の親に、頭を下げ、弟子にしてもらった。

 大工の現場は朝が早い。日曜以外は祝日も休みはなかった。

 毎日オカンの手作り弁当を持って、自転車で親方の家まで通った。
 そして親方と軽トラに乗って、現場へ向かった。

 当時は不景気なのか、自分の思っていた大工の仕事はほとんどなく、サイディングと呼ばれる外壁工事に駆り出される等、他業種への応援工事が多かった。

 そこは単純にパネル加工の外壁を切って、運んで、釘で撃つという単純作業の肉体労働であった。

 また、親方が請負で取ってくる仕事にトイレのリフォーム工事がたまにあった。
 補助金の工事で和式のトイレからバリアフリーの洋式スタイルに変えるのが主な仕事内容であった。

 タイル張りで昔ながらの和式トイレをツルハシを使って、解体しバリアフリーの床を造り、洋式の便座を据え付ける。
 これが主な工事の流れである。ほぼ肉体労働なので、体力に自信があった僕は即戦力になっていたと思う。

 ある日、トイレのリフォーム工事で新しいウォッシュレットの便座を据え付け、最後にリモコンを壁に取り付けようとしていた。

 親方が便座に座り、
「この辺がいいかな、拓、リモコンを取ってこい」
と言われた。リモコンはプチプチの緩衝材に梱包されており、まず僕は梱包をはがそうとしていた。

「何やってんだ、早くしろ」
今日の親方は、いつもより機嫌が悪かった。
 緩衝材に包まれたリモコンをそのまま手渡した瞬間、何かを指で押した感覚があり、

「ピッ」
と音が鳴った。

そして、
「シュ、シュワー」

 親方はリモコンを両手に持ち、便座に座っている。そこへ勢いよくウォッシュレットの水が出てきた。

「バ、バカやろう! み、水を止めろ」
親方が必死の形相で、こっちを睨んだ。

「親方、そのリモコンで止めましょう」
と僕は親方が持っているリモコンを指さした。

「お、おう、、」
しかし、プチプチに巻かれたリモコンは、どのボタンを押せばいいのか、よく見えない。

「どれが停止ボタンだ?」
新しい床を、いきなり水浸しにする訳にはいかない。
 適当にリモコンのボタンを押しては、水の勢いが強くなったり、違う方向から水が出たりした。

 最後に僕がウォッシュレットの電源コードを抜いて、ようやく水は止まった。

 いろいろあったが、なんだかんだで半年ぐらい、親方にはお世話になった。

 自分から言い出したので辞めるのは、少し気まずくなったが、力になってくれたのが家族であった。

 そもそも大工の年季という仕組み自体があやふやであった。最初の給料が3万円で、次の月から5万円であった。

 小遣い程度とは言われていたが、本当にこの金額しかなかった。

 そこから健康保健と国民年金、携帯代を引くと、ほぼ全てなくなるのだが、実家には3万円を家に入れるという、約束をしていたので確実に赤字になった。

 オカンに毎日3食、作って貰っていたので、3万円はとても安いと思ったが、削れるのはそこのお金しかなく、途中から1万円で勘弁してもらっていた。

 大工で仕事を覚えていくには道具が必要である。
 昔はノミとカンナとかで良かったかもしれないが、今日では、ほとんどが電動工具になっている。

 しかも親方は、そのノミとカンナを僕に与えただけで、
「他の工具は自分で買って、そろえていくものだ」
と言い切った。

 最初の数ヶ月は親方や兄弟子の工具を借りて使っていた。何度も使うことで自分の物が欲しくなってくる。

 給料が5万円なのに、仕事で使う工具を5万円以上かけて買ったこともあった。

 新しい道具を持って現場へ行くには、車が必要であった。中学の同級生に頼んで10万円で中古の軽自動車を売ってもらった。

 そうこうしているうちに6ヶ月が経ち、そして給料日がやってきた。

 さすがに親方は分かっているだろう。ほぼ毎日一緒に仕事をしている、自前の車で現場に行き、工具も自分の新しい物を使っている。ガソリン代や保険も自分で払っている。

 いくら何でも、今までと同じである訳がない。そんな想いで給料袋を開けると5万円しか入っていなかった。

 貯金はもう30万を切っていた。このままでは破綻する。悩んだ末、親方に辞めると伝えた。

「辞めることは、受け付けない」
という。そして何度も、何度も電話がかかってきた。電話に出るのが怖かったので、無視を続けた。

 家にこもっていた。家から出るのが怖かった。しばらくして親父が、ノミとカンナを親方の所に返しに行ってくれた。
 そして親方からの電話はかかって来なくなった。

ここからがラフティングの話になるのだが、話が長くなったので、今日はここまで。次回はこの続きを書こうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?