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親父とオカンとオレ 14 〜2001年アジア放浪記 三 〜

前回からの旅の続きを書こう。(計4話、約2,000文字)

 バンコク中央駅からカオサン通りまではタクシーを使った。
 僕は例のカフェ手前でタクシーを降りて、こっそり歩いて近づき、中を覗いた。

 なんとヤツが、こっちを向いて座り、コーヒー片手に本を読んでいた。
 生きた心地がしなかった。

 一旦離れて、今度はカフェの正面を迂回し、隣の旅行代理店に入った。
「パ、パスポート返して!」

 バリの男に気付かれずに、何とかパスポートを手にした僕は、隠れるようにバンコク中央駅まで引き返した。

 カンボジアには、この駅から国境の町まで列車で行けるみたいだ。

 一刻も早くバンコクから離れたい気持ちで、列車に飛び乗った。
 車窓が都会から、田園風景に変わっていくにつれ、僕の心はようやく落ちついてきた。

 列車に揺られて8時間くらい、日が暮れて、アランヤプラテートという国境の町に着いた。

 事前に調べていたホテルに泊まり、翌朝、タイとカンボジアの国境を陸路で越えることにした。

 カンボジアと言えば、アンコールワットが有名で、僕もその名前は知っていた。
 図書館で借りて持ってきた「地球の歩き方」はタイの特集なので、カンボジアの情報は、あまり書かれていない。

 明日から何の情報も無しに旅を続けることの不安と楽しさを感じながら、眠りについた。


 ホテルを出て国境のゲートまで5キロというので歩いて行くことにした。
 国境まで続く大通りにでた所で、信じられない光景が飛び込んできた。

 永遠と続く人々の列がそこにあった。それらの人々は大きな荷物を抱えて、ただ前を向いて行列を作っていた。
 その長蛇の列の横をタクシーやトゥクトゥクが行き交っていた。

 僕は歩くのを諦め、トゥクトゥクに乗って国境ゲートまで行くことにした。
 この間、人間が成せる行列に度肝を抜かれ、恐怖を覚えた。

 後から聞いた話なのだが、あの行列はポルポト政権で迫害を受けたカンボジア難民が、帰国するために数日かけて並んでいるらしい。

 Foreigner(外国人)と書かれたゲートには誰も並んでおらず、軍服を着たおっさんが、暇そうに1人で座っていた。

 出国カードを書くように渡されたが、タイ語と英語のみで書かれており、名前と生年月日以外どう記入すればいいのか分からなかった。

「ジャパニーズ?」
と入国管理官の男が聞いてきた。
「イエス」
と僕は答え、次の質問を待った。

 しかし軍服を着たその男は、名前と生年月日だけが書かれた出国カードとパスポートを見くらべて、

「オッケー」
とパスポートに出国スタンプを押し、ゲートを通過させてくれた。

 カンボジア側のゲートも同じような感じだった。日本のパスポートが如何に信用のある物かを見せつけてくれた。


 ポイペトというカンボジア側の国境の町にやってきた。ここからアンコールワットがあるシェムリアップの町までピックアップトラックに乗ることになる。

 トラックの荷台に10人くらいの乗客がすし詰めで、出発した。
 カンボジアの道は舗装されておらず、至るところにクレーターという穴があり、そこを通るたびにトラックも人も跳ねた。

 ピックアップトラックの客は、半分が欧米人のバックパッカー。残りは現地の人達で、中にはニワトリの入った竹かごを抱えてる人もいた。

「女子供は荷台の中に、男はトラックのあおりに座れ」
と舗装されていない悪路で、あおりに座っているのは、危ない気がしたが、意外と大丈夫であった。

 途中で何度も現地の人を拾ったり、降ろしたり、時として荷台の中は混雑する。
 あおりに座っている自分は体の半分を外に出しながら、落ちないことだけを考えていた。

 風が気持ちよかった。このピックアップトラックの運転手は猛スピードで悪路をぶっ飛ばした。

 踊るように飛び跳ねるこの道のことを
「ダンシングロード」
と呼ぶ。総距離160キロ、大阪〜名古屋くらいの距離であった。

 信号機などある訳がなく、この男はクラクションを鳴らしまくって、道を横切ろうとする人や牛を怯えさせた。

 のどかな田園風景が永遠と続いていた。痩せ細った水牛が、同じく痩せ細った男に引かれて田を耕している。

 たまにアヒルの親子が水田に浮かんでいるのを見つけて心がなごんだ。

 ピックアップトラックの乱暴な運転にいくらか慣れてきた頃、突然事故は起こった。

「ガッシャーン」
何かにぶつかった衝撃で車が止まった。
自転車に乗った男が道端に倒れていた。

 トラックの運転手は倒れている男に向かって
「馬鹿やろー、気をつけろ!」
みたいな現地の言葉を浴びせて、何もなかったように車を動かし出した。

 すると僕の横に座っていた、カナダ人の青年が立ち上がり運転席の屋根を叩いて
「ストップ!ストッープ!!」
と車を止めさせた。

 さらに欧米人のバックパッカーが2、3人詰めより、運転手の男に謝ってくるように英語で諭した。

 苦々しい顔をした運転手は倒れている自転車の男の横まで歩いていった。
 そして、謝ると思ったが、なんと自転車を足で蹴飛ばして、何か罵声を浴びせ、最後にお金をその男に投げつけて帰ってきた。

 その一部始終をトラックの荷台から見ていた僕は、平和な日本に生まれて良かったと心から思った。

 シェムリアップの町に着いたのは夜だった。何とか宿を見つけて、その日はぐっすり眠ることができた。


 アンコールワットは有名だが、当時の僕は、寺院や遺跡にほとんど興味がなかった。
 今になって必死に思い出しているのが、アユタヤで見た景色とカンボジアでの記憶がごちゃ混ぜになっており、見てきた遺跡などは、ほとんど思い出せない。

 シェムリアップでもレンタルサイクルを借りて、走り回った。
 当時は、まだジャングルの中に地雷が残っているから、気をつけろと注意を受けていた。

 あと犬が異常に多く、放し飼いにされており、何度も犬に追いかけられた記憶がある。
 噛まれると狂犬病にかかって死ぬという噂があったので、とても怖い思いをした。

 カンボジアの屋台はタイに比べて、か
なり貧弱な造りで、ガスがなく、薪に火を焚べて鳥を丸焼きにしている所などがあった。

今回の話はここまで。次回が最終の15話になる予定。

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