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サウナ小屋を作るまでの道⑦

壁の材料を買ってもいないこの状況で何を語ろうというのか。

東吉野村にはニホンオオカミが最後に捕獲された場所として観光地化しようとしていたが、インパクトの弱さというか...ハチ公のような銅像が県道沿いにポツンとある。

1905年に捕獲され剥製がロンドンの大英博物館に現存するらしい。

最後のオオカミが捕獲された日よりもさらに42年さかのぼる。幕末に天誅組の変という事件が起こる。

その幕末の志士が討ち取られた場所として、天誅組をこの村は観光の柱にしようとしているが、インパクトのほどは如何なものか。

1863年なので大政奉還の5年前の話である。幕末から明治にかけての時代が好きな自分でも天誅組のことはほとんど知らなかった。

先駆けの志士と呼ばれる天誅組について少しだけ触れてみたい。

京都の長州藩邸にいた吉村寅太郎ら数十人が同志を募り討幕の兵をあげた。そして五條代官所に打ち入り代官の首を斬った。

39人の若者が
「江戸幕府を倒すぞ!」
とテロを起こしたワケである。

奈良県五條市の代官所は当時、15人しかおらず、しかもその夜は宴会をしていたそうだ。

錯覚革命という言葉があるとすれば、この義軍こそまさにそうだと思う。京都では尊王攘夷と盛り上がっていたが、日本中が何事もなく暮らしているときに、大和の田舎で、「五條新政府」まで建てて騒いでいた。

五條代官所を襲撃した天誅組は、吉野の山中でキコリをする十津川郷士団に声をかけ1000人を超す大部隊になった。

「次は高取城を落としてやる」

勢いに乗る天誅組に比べて、高取藩兵は150人。震え上がっていたと思う。

譜代大名の高取藩植村家にはブリキトースと呼ばれる大砲を持っていた。これは大坂夏の陣で大阪城攻略のため作られた物で淀様と秀頼公を震え上がらせた例のやつである。

1615年の大阪夏の陣で使った6門の巨砲全てを後年、徳川家康は高取藩にさずけた。それから約250年、一度も使われてなかったらしい。

各砲ごとに大砲方という役があり200年間もの長きに渡り、録をもらい子を生み受け継いできた。

たった一門の砲を撫でさするだけで6つの家は、禄をもらい子々孫々生きてきた。
そして6つの家は互いに牽制し合い他家の大砲には触れないという掟があったそうだ。

どの大砲方の家も、200年のあいだ、口伝で火薬の調整法を伝えていたそうだ。ただ一つの家を除いては、火をつけてもぽっと燃えるだけで爆発せず、何の役にもたたなかった。

「うちの家では火薬をこのように混ぜると聞いていたがのう、、、」

どの大砲方の家も代々秘伝や口伝で調製法を伝えているうちに、少しずつ伝え誤りが出来て、ついに役にも立たぬ火薬を調製して、合戦に出てきたのである。

笠塚新次郎という緒方塾で学んだ者だけが、新知識の火薬を使い、轟然と砲口から火をふき、撃ちまくった。

笠塚家のブリキトースの大砲で天誅組は壊滅してしまう。

今回はサウナの話というより、歴史小説みたいになってしまったので、また出直すことにする。


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