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女神の前髪 ~ チャンスを逃す人がしないこと

いつの頃からか、チャンスを逃す瞬間がわかるような気がしている。残念ながら、自分のチャンスではなく、他人のチャンスだけなのだけれど。

他人のことだから、大きなお世話だ。この人がチャンスを逃す代わりに自分がチャンスをつかむなら、さらに大きなお世話ということなのだけれど、残念ながら他人とチャンスの取り合いをすることにはめっぽう弱い(何しろ、Strength Finderの34の資質で競争性が最下位なのだ)。
なので、自分にチャンスが巡ってくるかどうかは関係ない、言ってみれば「ひとごと」な状況で、そういう瞬間をみた、という気がすることがある。

チャンスの女神には前髪しかない、なんて言われる。具体的に想像してみると、前髪しかない女神の姿というのもちょっと異様なものがあるけれど、それはともかく、「前髪をつかめる瞬間」をのがす一瞬に気がついてハッとした時には、言ってあげようにもすでに遅い、という状況なのだ。

過去にいくつかそういう瞬間を覚えているのだけれど、先日ふと、それは「変化しないこと」をその人が選びとった瞬間ではないか、ということに気がついた。

変化しないことを選ぶ理由はさまざまにある。忙しくて新しいことに手がつかない、自分以外の人や組織の意向を気にしてしまう、単純に面倒くさい、変えることが怖い・不安、などなど。だが、結果として、その人がそのチャンスをつかまなかった、ということは一緒。変化することを選ぶよりも、変化しないことを選ぶ方が簡単だ。なにしろ、何もしなくていいのだから。

そして、更に余計なお世話なことに、私なりにそういう人のその後を知りうる限りで見てみると、(あくまで主観的に、だけれど)あまり幸せなことにはなっていないように思える。その中のある人は、私に会うたびに「オマエはいいよな」という趣旨のことをいうのだけれど、あのとき前髪をつかまなかったのは自分じゃないか、と内心思ってしまう。

考えてみれば、チャンスをつかむというアクション自体が変化すること、今までとは違うことをすることだ。チャンスのつかみ方として最も他力本願な部類かと思う「宝くじに当たること」ですら、宝くじを買うというアクションが必要になる。それが惰性になっている人もいるのかもしれないけれど。

ともあれ、チャンスをつかむことと、変化すること、変化を受け入れることは、同義と言っていいんじゃないか、という気がする。

ただし、変化したからといって、すぐに何かポジティブなことが起こるとは限らない。短期的には「ほらみろ」と言われるような失敗に見えることもあるかもしれない。かつてそうして外からは「失敗した」と見られたであろうプロジェクトに一緒に関わった人と久しぶりに会ってある相談をしたところ、次のチャンスが来ているのかもね、という話になった。もちろんこの「次のチャンス」が本当に成功するのかどうかなんて、全くわからない。ちょっと考えただけでもハードルは高く多いから、むしろ失敗する可能性が高いと、少なくても一般的には思われるんだろうな、と思う。

ただ、そういうものであっても、前の「失敗」に懲りずに「次のチャンスかもね」と言ってくれることが嬉しいし、そういう人が好きだ。



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