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バリ島 音楽と芸能の旅2024 -3.ガムランを学ぶ(リンディック編)

1.リンディックとの出会い

バリでの楽器修行第2段は、竹の楽器リンディックです。別名ティンクリックとも呼ばれます。いわゆる金属製のガムラン合奏には使われず、基本2台だけ、時にはスリンという笛とともに小編成で演奏する楽器です。
竹特有のとても柔らかい音色で、それでいて音はよく通り、バリの風に乗ってふわっと聞こえてくるととても心地よいのです。ガムランは儀礼の奉納として演奏されますが、このリンディックは日常的な楽器で、生活の中のサウンドスケープとして楽しむ楽器と言えるかもしれません。

この楽器とは前回の滞在時に出会いました。滞在先の近所の名手、Dewaさんが毎日のようにレッスンしてくださり、滞在中に5、6曲覚えました。
初めて楽器に少し触れさせてもらった際、私が比較的すぐに覚えて弾けたので、先生のほうが「なかなか筋が良いではないか!」とスイッチが入ったようで、それから毎日のように教えに来てくれるようになりました。
一つずつフレーズを覚えていくのですが、ある程度の長さをループして弾いていきます。一度弾き始めると、先生の合図があるまで終わりの手に行けないので、時には2、3時間ノンストップでレッスンが続き、はじめは力の抜き方も身についておらず腕が痛くて限界になり、「先生限界です!」と叫んでやっと止まってくれるくらいでした笑。

この楽器も、やはりコテカンと呼ばれる交互に音を組み合わせて弾く構造になっており、片方をポロス、もう片方をサンシと呼びます。ポロスの表拍を補完するように、サンシが裏拍に入り、初めて旋律が現れます。
なので、相棒がいないと演奏できないため、Dewaさんも一緒に弾ける相棒を見つけて久しぶりに演奏できて嬉しかったのでしょう。

私はこの時初めて、身体から覚える、という習い方をしました。もともと西洋音楽から音楽を学んだ私は、楽譜をもとに音楽を立ち上げるという経験は数多くしてきましたが、自身の取り組む方法論以外で、新しい音楽を楽譜を使わず耳コピで習って覚えていくという学び方をした初めての経験でした。

始めは習ったことをなんとか記録しておこうと、五線譜に書き留めたりしていましたが、途中でナンセンスだと気づき、一切やらなくなりました。音楽の捉え方自体が全然違うので、五線譜に書き起こし、そこから立ち上げようとすると感覚が全然変わってしまうのです。

弾く瞬間まで全く忘れているのですが、いざ弾き始めると体が覚えていて、スルスルと演奏ができてしまうのです。逆に書き留めた五線譜を見て演奏すると、その場では初見ですぐ弾けますが、すぐに忘れてしまいます。
一方、体で覚えた音楽は決して忘れないので、とても新鮮な経験でした。おかげさまでリンディックを習うことでガムラン音楽の真髄を体感できたのです。

前回滞在時のレッスン風景

2.Dewaさんとの再会

それから6年。久しぶりのバリ島滞在、今回も期間中またDewaさんと演奏できたらなと思っていました。
今回も前回と同じところに滞在させていただき、本当にいつも温かく家族のように迎え入れてもらっているのですが、今回も私が来ることは事前にDewaさんにも伝えてくださっていたようでした。

ですが、滞在時はちょうどクニンガン、オゴオゴ、ニュピなどと言った年中行事で忙しい時期で、まさに日本で言えば「盆と正月が一緒に来たような」状況だったので、滞在前半はなかなか会えませんでした。

そんな中、ニュピ前日、日中にオゴオゴの準備をしている集会場の近くを通ったら、なんとDewaさんがいるではありませんか!
お互い「お〜!!」と叫びながら抱き合い、師匠との感動の再会を果たしました笑。

Dewaさんと感動の再会!

偶然の再会にお互い喜びあい、ニュピが明けたらまたぜひセッションしましょう!と約束をしました。

3.セッション再び(アッサンブラージュ創出の瞬間)

約束通り、ニュピ明けのある夜、Dewaさんはやってきてくれて、久しぶりのセッションをしました。しかしその際私は正直、あんなに練習したのに、1曲くらいしか覚えていなくて、、ああなんてこと、、と思っていたのですが、覚えていた断片を少しずつ弾き始めると、またスルスルと体が勝手に動くのです!本当に面白いもので、体で覚えた音楽というのは、何年経っても、頭では思い出せなくても、ちゃんと体が覚えているのですね!感動でした。

そして演奏しながら、当時感じていたいろいろなことを思い出しました。相手がふとボリュームを下げると、その微細な変化に反応する。終わりに向かうという気配をどちらかがわずかに出すと、もう一方はそれに敏感に反応し、何も言わずとも互いに終結へ向かうメロディへと移行していく。この言葉よりももっとずっと繊細なサインを互いに感じあい、それに答えていく。これがガムラン演奏の醍醐味だったな!と。こんな繊細な優しいやりとりは、日常生活ではなかなか難しいですが、演奏の上ではそれがあっさり可能だということがありありと蘇ってきて、改めて感動を覚えました。

また、その夜のその場の空気が、なんとも緩やかで、全てが溶け合うようで本当に心地よかったのです。ちょうど先日私は、参加していた科研費での研究会にて、文化人類学や音楽教育の先生方と「そして私も音楽になった -サウンド・アッサンブラージュの人類学」という共著本を出しました。

この本に書かれているテーマは「サウンド・アッサンブラージュ」というものです。アッサンブラージュとは、様々な要素をコラージュのように組み合わせることを意味しますが、音楽が、その独特の力によりその場に存在する一見無関係な人、モノ、空気や状況など様々な偶発的な要素をするりと結びつけ、不思議な一体感や想像を超えた力を生み出す不思議さを指しています。上述の本は、その「サウンド・アッサンブラージュ」が立ち現れる不思議さについて、それぞれの著者が分析しているのですが、あの夜はまさに「アッサンブラージュ創出の瞬間だった」と言える時間でした。

家族や近所の人たちが庭になんとなく集まって過ごしている。夕涼みをしながらおしゃべりする人、マッサージを受けながらリラックスする人、走り回って遊ぶ子供や犬たち。各々自由に過ごしているのですが、そこに流れるリンディックの響きによってなんとも言えない空気に包まれ、皆が心地よく一体になる感覚がありました。そこに音楽があるから、互いに自由に過ごしているのになんとも言えないつながりを感じ、安心感が生まれ、なんだかとても開放的な感覚が生まれたようでした。あの夜の感覚はうまく言語化できないのですが、音楽の持つ、アッサンブラージュの力を体感するとても幸せな時間でした。

映像ではなかなか伝わりませんが、その夜の風景を少しだけお見せします。


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