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政体循環論の本質、不適切な物理モデルの応用、一般意志の解釈

長沼伸一郎『現代経済学の直観的方法』で、社会が一番重要視するべきものは何か?について、1つの良い考え方が提示されている。

政体循環論の本質は、一般意志の実現度

著者は、古代ギリシャの長い伝統的な政治思想を引用する。

そこでは世の中には良い政体が三つと悪い政体が三つあり、良い政体が「君主制・貴族制・民主制」、そしてそれぞれが劣化した悪い政体が「独裁制・寡頭制・衆愚制」である、というのが標準的な見方だったという。

またそのバリエーションとして「政体循環論」という思想があり、これは政治形態がこの六つの間を循環する。具体的には「君主制→独裁制→貴族制→寡頭制→民主制→衆愚制」というサイクルを繰り返す、というものであり、もう少し詳しく言うと、
君主制が劣化して独裁制になると、それを貴族たちが倒して貴族制になり
→それが劣化して寡頭制になると民衆がそれを倒して民主制になり
→それが劣化して衆愚制になると、それを収拾するために君主制に戻ってサイクルが一巡する、と。

これはプラントとか読んでれば、知っている人は多いかもしれない。しかし、その本質を著者はうまくまとめている。

一言で言えば、一般意志が最大限に実現されうるものが「良い政体」なのであり、それに比べれば民主化や権力の拡散がどれだけ進んでいるかは、二の次である、と。

これは大変本質的である。

君主制であっても、それによって社会の長期的願望が民主制の時よりも実現されるならば、別に権力が君主一人に集中してもそれ自体は悪ではないことになる。そのためギリシャの常識では、近代と違って、民主化が進みさえすれば理想社会が到来してそれが世界史のゴールだ、という見方はなかった。

この1点に的を絞ると、大変わかりやすい。

なぜ現代は誤ったか(不適切な物理モデルの応用)

現代は、欲望に忠実に生きることを善とする。
なぜか?
それは、現代の資本主義社会では「大勢の短期的願望(部分)を集めていけば、それは長期的願望(全体)に一致する」ということが信じられているからだ、と著者はいう。

なぜそう考えるようになったかと言えば、これは不適切な物理モデルの応用であるという。
物理の話をヒントにするのはジョン・ロック以来の近代啓蒙思想の習慣で、それらの多くがニュートンの体系に大きな影響を受けて作られており、特にその際に最も決定的な影響を及ぼしたのは天体力学であるらしい。

空気中の分子の細かい動きが、たくさん集まると互いに打ち消し合っていくというイメージが大きい。つまり短期的願望は個人個人でランダムな方向を向いているが、それを大量に集めれば、細かいランダムで短期的な動きが次第に打ち消されて、長期的な動きの分だけが残るだろう、という考え。それゆえ、短期的願望を素直に実行すれば、結果的に、社会全体では最大公約数的としての長期的願望が姿を現わす、と信じられたというのだ。

しかし、実際の物理の世界では、このような要素還元主義的な考え方ができるのは、太陽系だけにいえる例外的な特殊ケースであるという。

つまり、物理の世界で例外的なルールを信じ込み、人間社会に応用してしまったことが、現代において長期的願望が短期的願望に駆逐されている原因という仮説。大変興味深いし説得力がある。

一般意志の解釈

さて、一点個人的に疑問があったので、ここは補足しておきたい。
それは、「一般意志」の著者の定義だ。著者は「長期的願望」と「短期的願望」という概念を出し、前者は「禁煙して健康になりたい」というようなもので、後者は「手元のタバコを吸いたい」というようなものだという。つまり、理想的なものか快楽的なものかというようイメージ。ルソーの一般意思と全体意思の概念を、この「長期的願望」と「短期的願望」になぞらえている。

大まかには納得なのだが、これだと、この両者の違いがわかりづらい。
一般意志については、様々な議論があり、定義が難しいが、私が一番しっくりすぐ定義は、各人が他者のことを想像でき、気にかけているという条件の基に下された決定が、一般意志である、というもの。

つまり、「自分が生きたいように生きたい」という自分の自由を追求するとともに、他者も同じように自由を追求する存在だと理解して生きること。そのためには、みんなの顔が思い浮かばなければならない(ピティエ)。みんながこのように振る舞ったら、そこに一般意志が生まれる。



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