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「料理に向いていない理由について」-2024/2/24

料理は好きだが、本質的な部分ではあまり料理には向いてないような気がする。特別下手というわけでもない。比べたことはないから分からないけど、割に得意なほうだと思う。向いてないと思うのは、料理技術を向上させるためのアプローチがあまりにアバウトで時間のかかる方法だから。そして、それこそが僕が料理を好きな理由でもあるから。

料理が好きな人でも、その理由は色々ある。単純に美味しいものが食べたいとか、料理の工程自体が楽しいとか、節約になるとか。僕の場合、かなり感覚的な理由というか、言葉通り感覚そのものなんですが、料理という一連の物理的なプロセスを通じて、その反響が身体の中にゆっくりと蓄積していく感覚が好きなのだ。「経験則」と「勘」の中間みたいなものが磨かれていくというか。

それは例えば「今日の味付けは甘すぎたから、次は砂糖を減らしてみよう」といった具体的なフィードバックではない。そもそも分量なんて計ってないんだから再現性がない。自分の料理を食べたときに、味に対して何か思うことはあるけど、言語化されたデータとしては何も残らない。食べ終わればすぐに忘れてしまう。僕がここで言いたいのは、料理の出来不出来みたいな結果とその改善のことではない。料理という行為全般への非言語的かつ身体性を伴った無意識の順応についての話だ。

僕は料理中でもあまり料理について考えていない。事前の準備や細やかな配慮もしていない。そもそも「こういう料理を作ろうかな」という目標自体もかなり希薄なまま作り始める。かといって、まったくのでたらめに作っているわけでもない。ぼんやりした方向性にむけて、思考のもっと手前にある感覚的な領域に任せて料理をしている。それが前述の「経験則」と「勘」の中間みたいなものになるんだと思う。人には説明がややこしいので「適当に作る」と言ったりもする。

名前がないと文章上で困るから、あんまりしっくりこないけど、便宜的に『料理勘』と呼ぶことにする。そして、この『料理勘』は繰り返し料理を作り続けていると、いくぶんスローぺースではあるものの確実に鋭くなっていく。自分では何がどう良くなったのかは自覚しにくい。

「それは『慣れ』と言うんじゃないか」と指摘されたら、まあ、そうかもしれません。論理的に言い返せそうにないけど、「慣れ」とはちょっとニュアンスが違う気がする。「慣れ」は明確な目標を志向する場合に用いられる言葉だと思う。僕は料理としての目標もないし、料理中はあまり何も考えてないし、出来上がりは毎回バラバラだ。同じものを作ろうとしても難しい。飽きっぽいのもあってノリで食材を足したり、減らしたり、脊髄反射的な出力の連なりの結果として料理ができる。

平たく言うと「何も考えないで適当にやってるけど、なんかいつの間にかちょっと上手くなってんじゃん」が好きということになる。そう言ってしまえば、ごく当たり前のように思える。でも、その『料理勘』だけで料理を作るのはあまり賢いとは言えないし、そういう人はあまりいない。賢いと言えないばかりか、料理とは本来そういう性質のものではない、とすら思える。料理とはあらゆる要素を具体的な手順として落とし込む行為だから。

レシピを見ることも普通にある。でも食材や手順を確認するというより、もっとおおまかなイメージの参照みたいな捉え方だ。インスピレーションを得るというと大袈裟だけど、それに近いかもしれない。海についての詩を書こうとする人が、まず実際に海に足を運んでみるように。

そうして切ったり焼いたり煮たりして、出来上がったものを食べる。そこには定量化された工程はない。にも関わらず、その一連のプロセスによって『料理勘』が意識できない僅かなレベルで発達していく。それが面白い。もしかしたらそれは「味覚」という固有の感覚機能によってもたらされる反響なのかもしれない。

逆に言えば、僕はそのプロセスを経由することでしか料理が上達できない。だから本質的な部分では料理に向いていないと思っている。

料理なんて全然作ったことなくても、料理の本質を素早くさっと掴み取れる人もいる。それは具体的な段取りをイメージできたり、優れた味覚の持ち主だったり、勤勉で意識的に改善に取り組める人たちだ。

とはいえ向いてなくても、ぼうっと作ってても、料理はやっぱりそれなりに楽しいです。料理のいいところは基本的な食材がどこでも買えること。スーパーをうろつき回ってるだけで愉快な気持ちになれるのは、生活を充足させているたしかな実感になりますね。

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