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「植物の葛藤」-2021/10/29

オモコロの会員コミュニティ向け配信で植物の話をする会合に参加した。


観葉植物良すぎ。良すぎるぜ。平凡な街中が違って見える。この世の中、植物で溢れすぎ。それを無料で鑑賞できるのおトクすぎ。商店街にある放置されたアロエ、ミチミチすぎ〜。美容院の前にある植物、洗練されすぎ〜。通り過ぎるだけの町に色が灯りすぎ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

イイイーっひっひっひィ。
ハァハァハァハァハァハァ…
ギギっ。ギイィ っきゃっきゃ
ひゃー〜〜〜〜〜〜、
あ~、オラ毎日楽しい。

でも葛藤があるのもたしかだ。植物が良いと公に表明するのは恥ずかしいとまでは言わずとも、なんかこう、ねえ…健全ですねえ…へへ、すいやせんねえ、旦那…という気持ちもある。合理的な説明ができるわけじゃないのだが。乱暴に言ってしまえば「丁寧な暮らし」的なるものへの懐疑というか。この感覚って割とバーグ周りの人達は、多かれ少なかれ共有している感覚ではあると思っているのだが、一般的には分からない(社内で確認してるわけじゃないので自分だけ孤立してたらすみません)。

こう、もっと自堕落な不健康さにインターネット的な精神が宿るちゃうんかい、と囁く自分がいる。もちろんこれは世間一般に拡大できないし、するべきでない。健全な肉体・正しい生活のほうが明らかに良いからね。

だからといってこの気持ちが間違っているとは断じたくない。インターネット的な監視者を内面化している自分にとって、「臆面もなく植物良いって言えね〜」という感覚は、自己と不可分な領域でもある。なので、ある側面からは(自分にとっては)正しい感覚だ。世間的な正誤の問題ではなく。

でもやっぱり観葉植物は良いと思ってるし、明日にでも植物屋さんに行きたいのよ。一方で蓄積された感覚は消え去ってるわけでもない。なんか説明がよくわかんなくなってきたな。別に人が主義思想を変えることを悪だと言いたいわけじゃないのですが…

つまりこういった引き裂かれた状態を抱えながら、それでも生きるのが人間やねん!!!!!!ということかもしれない。自意識という名のアイデンティティに引き裂かれながら、死ぬまで悩み苦しみ続けることそれが人生。この葛藤から解脱する方法などは存在しない。片方に身を預けるほうが楽だとは思うけど、そうするのは不誠実。「植物いいぜ」と「植物いいって言うの恥ずいぜ」を抱えて生きるのが人生。人生〜〜〜〜〜。人生の話をしました。ユーフォルビア・ホワイトゴーストが欲しい。

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