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【全日本プロレス】吉江豊追悼セレモニーがあった、2024年3月12日の新木場大会を観ましたわーッ!!!【前編】

 皆さまごきげんようーッ!!!いつも読んで下さっている方は押忍ですわーッ!!!初めましての方は初めまして押忍ですわーッ!!!というわけで押忍ですわーッ!!!

 さて今回は全日本プロレスですわ。試合前に吉江豊の追悼セレモニーがあり、吉江のテーマ曲が鳴り響きましたわ。するとわたくしの脳裏には、在りし日の吉江本人があの曲の歌詞を「ワーイ!!!ワーイ!!!フードファイト!!!ですよ♡♡♡」と言っていたのが浮かんでは消えましたわーッ!!!人柄がしのばれますわ……!!!

 いやほんと、吉江の逝去は残念といわざるを得ませんわ。先日の全日本プロレスの試合後に体調が急変し救急搬送され、亡くなったとのことで、わたくし、ガックリ来ていましてよ。アントンやテリー・ファンクに匹敵する喪失感で、ほんと辛いですわ……!!!

 死因は動脈硬化だそうですわ。ご遺族いわく「プロレスとは関係ないので気にしないで下さい」とのことで、何と気丈な……。こうなりましたらば、わたくしがすべきことは、吉江豊がどんな選手だったか、あまり語られていないところを少し記して、皆さまの中に吉江豊を残してもらうことですわよね。というわけで行きますわーッ!!!

 吉江豊は1994年2月に新日本プロレスに入門し、年末の12月9日に小島聡戦でデビューしましたわ。しかし2戦目で骨折し、以後1年近く欠場となりましたわ。これって実質、2年間ほぼ練習生をしたということとなり、これを当時の新日本プロレス合宿所の料理長である太武経(ふとりたけつね)さんは「吉江なんかは2年間ひとりでチャンコ番やったからね。あれは可哀想やった。アイツはトロいとこあるけど、辛抱強いとこがあるんよ。あんた、2年間チャンコ番はちょっとキツいよ。普通の人間は絶対辞めとるよ。吉江はそれでも残ったからね」とおっしゃっていましたわ。

 当時は先輩から「給料泥棒(笑)」とネタにされたりもしたみたいですが、そこも耐えたのでしょうね、まさに辛抱強いところがありますわ。そしてリング復帰へ。おかげで1995年10月9日からの新日本プロレス対UWFインターナショナルの流れの中に吉江はおらずでしたわ。つまり、シュートと隣り合わせの大舞台に駆り出されずということ。欠場期間の長さもあって、当時はとにかく出遅れたということなのですけれども、結果的にこれが、吉江を他の新日本プロレス出身レスラーと一線を画す存在にしたとわたくしは思っていましてよ。

 どういうことかと申しますと、他のヤングライオンはUインターの若手とバチバチやり合い、新日本プロレス道場を背負うことで、選手としての色付けをしていた印象がありますわ。しかし吉江にはこの流れがありませんので、新日本プロレス出身レスラーすなわちシューターとしての片鱗を見る機会がありませんでしたわ。そして、だからこそ、幻想のベールに包まれたままでしたわ。

 その後、吉江はドイツ遠征へ。“スモー”ユタカ・ヨシエとして転戦し、カナダの大剛鉄之助のジムでの最終調整へ。この大剛鉄之助のジムで画作りとしてやらせるのがサンドバッグ打ちですわ。筋骨隆々になったヤングライオンのミット打ちの不鮮明な写真1枚は想像力をかき立てられるもの!!!そして、渦巻き頭とオープンフィンガーグローブ、レガースなしの蹴りという、色々不穏な要素をまとい、“格闘モンスター”なるキャラクター(週刊ゴング主導???)を得て2000年の凱旋帰国試合へ。その異様な風貌のあまりのインパクトにドームが終始ざわつく中、新兵器の裏拳、カナディアンハンマー、裏足4の字固めを出し、巡業へ。巡業では、ロープに走った相手の腹にカウンターで肩を入れて倒すタックルも披露。裏拳、裏足4の字固め、タックルは国際プロレスで見られたものですわ。吉江の好みが分かる技チョイスだと思いましてよ。その少し後には小島をハーフネルソンスープレックスで倒しますわ。この頃の吉江は色んな技をやっていましたのよね。片羽絞めなんかも。

 そして永田裕志、中西学、福田雅一と共にユニットG-EGGSを結成。それまでの新日本プロレスにおいては、正規軍内ユニットなどというものは存在しませんでしたわ。しかし、永田が長州から許可を得て結成と相なったという。昔はユニット結成ひとつとっても、マッチメイク的には、天地がひっくり返らんばかりの大問題だったということですわね。G-EGGSはタマゴの殻を破るというコンセプトのようでしたが、今となってみれば、現在の新日本プロレスのユニット抗争はG-EGGSのタマゴの殻から出て来たものだと言えると思いますわ。そして、わたくしのおnote恒例の、マッチメイクの話題にも繋がるわけですわね。

 G-EGGS解散、そして暗黒時代に差し掛かる新日本プロレスは“強さ”が揺らいでいく時期でしたが、吉江が中西学と共にNOAHに参戦すると、次期エース候補でGHCタッグ王者の力皇と森嶋をタイトルマッチで終始圧倒し、森嶋とのシングルでは回転裏拳で勝利。これらの映像はわたくしDVDで保持しておりまして、年イチくらいで観るのが習慣になっていますので、記憶に新しいところですわ。

 この後、新日本プロレスに不遜なウナギしぐさで参戦してきた藤田ミノルを裏拳で、朝青龍の弟にしてポテンシャルの高さで定評のあったブルー・ウルフを張り手で軽くKO。蝶野正洋をジャーマンでKOし、さらに、棚橋とはIWGPタッグを獲りましたわ。当時の棚橋は次期エース候補ではありましたが、まだまだ形になっていない時期で、そんな棚橋の用心棒ポジションにて献身し、試合を豪快に進めていまして、このチームの核は明らかに吉江だったというのがありますわ。極めつけはK-1の大巨人ノルキヤとの異種格闘技戦で、ダイビングボディプレスからのキャメルクラッチで倒すという、プロレス技全開の試合。「俺は総合格闘技の文脈には乗りませんよ、異種格闘技戦をやります」という雰囲気でアントンを閉口させ、プロレスのひとつの拠り所を意外と体現し、急激に「デカいは強い」を再認識させる存在になりましたわ。Uの時にベールを脱がず、総合格闘技の波が押し寄せて来た時に、その怪物性を見せつける“格闘モンスター”が遂にその身をあらわしたのですわ。

 コスチュームがピンクになってからは、まだゴリゴリに第一線だった天龍源一郎とのシングルマッチでガッチリ勝っていますわ。今だったらファンが大問題にするような天龍の激烈キツいガチ顔面蹴りを「パカン!!!」と食らうも、怒った素振りもなく、萎縮した様子もなく、ダメージも残っていない感じで、ただシンプルにのびのび天龍を倒す姿は、中邑や棚橋にないぶっとい強さを感じさせましたわ。

 後年、フリーになりましたらば、タッグマッチで複数回、全盛期の諏訪魔からピンフォールを取っていましてよ。諏訪魔に勝つというのは非常に難しく、それだけの強さや説得力がないと成し得るものではないと思うのですが、そこは天龍も倒した男・吉江豊ですわ。あのデカ太ボディでのダイビングボディプレスが決まったら、「返せないですわよね」となりましたのは、プロレスというジャンルにおける“説得力”がいかに大切かを知らしめてくれまして、それがあったのは吉江のあの体あってのものでしたわ。

 わたくしは、ヘビー級とジュニアヘビー級の混同が苦手なのですが、このプロレス観を作ったのは吉江豊の存在あってのものだと思っていましてよ。だからこそ、願わくば吉江豊というプロレスラーを、1人でも多くの方々に分かってもらえたら、覚えていてもらえたら、ご興味を持っていただけたらという思いで、追悼の祈りに込めて、吉江豊に捧げたいと思いますわーッ!!!

 押忍ですわーッ!!!(後編へ続く)

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