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絵を描き始めたきっかけ(1)

海外に住む私が、唯一続けているのが、絵を描くということです。今回は、どうして絵を描き始めたかについて、お話したいと思います。

それは、昔むかーし、20代の頃でした。関西の大学の英文科を卒業し、就職せずにアメリカの大学に編入しました。私の通った女子大は、当時から英文科の先生は、二年生からは半分以上がネイティブの先生で、英語での授業でした。田舎の高校で、文法や読解を中心に学んだ私にとっては、ごく単純な会話さえなかなか聞き取れず、一年生の英会話の授業の単位を落としてしまったことはとても屈辱でした。しかしながら、おかげさまで、その大学で4年間学んだ後、英語クラスを受けることなく、アメリカの大学に編入し、一年半後に、ビジネス関連のBA(卒業資格)を取って日本に戻りました。

田舎に戻って、いくつかの企業の面接を受け、東京のアパレル会社に内定が決まりそうだった時、ふと新聞の広告で、大阪のアート原画輸入卸会社が、英語のできる秘書を募集しているのを見つけました。

その時、ああ!この仕事をしたい!と思い、気が付いたら手紙を書いていました。当時Eメールなんてなかったですから。そして、面接、就職することになりました。

日本の大学に行っているうちから、アートには興味がありましたが、まさか自分がその道に進むとは、思っていませんでした。当時は、(今もそうかもしれませんが)進路を考えるときに、美大にいく、とかアートギャラリーで勤めるというのは、よっぽど才能のある一部の人に限られることで、いわゆる芸能人になるような感覚でした。 私はアメリカの大学で、コンテンポラリーアートを紹介するクラスを履修し、マークロスコーや、デビッドホックニーを知りました。またアメリカの大学の冬休みにヨーロッパに行き、パリのポンピドーセンターを訪れ、マチスの部屋やイブクラインの作品を見たとき、ああ、絶対ここに戻ってこようと思いました。それほど強く心に残りました。モダンもコンテンポラリーも、私にとって西洋アートは、大きな刺激なにか、大きな目標になっていました。

バブル期だったこともあり、その小さな大阪のオフィスは、二年もしないうちに、従業員が5人くらいから、20人近くに増え、ある年の12月には、スイスから営業に来たフランス人から仕入れた、小さなルノワールの一枚が、数千万円の売り上げをたたき出し、12月半ばには、事務所は休みに入り、社内旅行で、ロサンジェルスに行きました。

その会社に三年半勤め、最終的には、アメリカの新事務所に赴任させてもらいましたが、心の中では、なんだか違うんじゃないかと思っていました。

私の仕事は、海外から来た英語のファックスを日本語に訳したり、その逆に英語でファックスを書いたりすることでした。事務所には、シャガールやミロ、ピカソの本物の版画作品がたくさん積まれていて、目の肥やしになっていました。サザビーズのカタログで、作家の値段をまとめて目録にする仕事もしていたおかげで、たくさんの美術品に触れる日々でした。

でも、なんか私のやりたい事とはずれているな、と思っていて、最終的には、その会社を去ることになりました。

長くなるので、今回は、ここまでにしますね。



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