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内なるわたしの声


自分で創った道だとおもっていたものが
誰かに創られた道だったとしたらどうする?

信長公記の中のセリフ。
はっとさせられるセリフが多かった
心に残ったドラマです。


わたしが自我で歩んでると思ってる道も
それすらも、もっと上空の世界があったとして

目に見えない神とか真我とかなんでもいいけど
その存在に歩まされてるものだとしたら?


見えないなにかと自我のあるわたし
その両方が一体になった意識の瞬間。


それがいちばん生きてるって感じて
最高や!って感じる瞬間やなぁって

思う朝。🌈



こうやって今日は決めた場所に出勤すること
たくさん時間と身体を使ってお金を得ること。


そういうの全部、自らの意思で
選んでて、意味があると思って
やってること。


自らの人生を、自らの意思で進めてると思ってる今。

それでも

自我の範囲では収まらないなにかが
やっぱりあるのだとしたら、


1人やけど1人じゃない感覚。

内側に、わたしじゃない誰かがいてくれる感覚?

2人の私がいる感覚?

そんな感覚があらわれる。



これでよかったのかな?って悩むことも
大丈夫なんや。って不安に思う必要はなにもないのよ。

って思える感覚。

だってわたしじゃない何かが導いてくれてる道なのだから。


どんなに嫌だなぁとか退屈だなぁとか
こんなはずじゃないのに!
と思っても、

みんなみんな、もれなくどんな人も

華やかじゃないと思ってる今目の前に写る現実ですら、
華やかな作品の一部分として含まれてて
素晴らしい一瞬の映像だってこと。

点で見るか、円で見るか。
そんな話です。


そんなことをおもえた穏やかな朝。


内なる自分に余裕がある時は
誰のことも憎くおもえない。

度合いが違えど、誰にだって怒ったり
傷ついたり傷つけたりしてしまう気分を
持ち合わせて過ごす日がある。

強がったり、
心無い棘のある言葉をなげられても
それでも今日は許せそうだ。

と、思っていたいつかの朝の日記✍️


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