虹鱒釣り

私は紀伊半島のとある街に生まれて、高校卒業までそこで過ごした。
父は自営業、母は専業主婦、妹と弟がいる。
暮らしぶりは悪くなく、子供心にも不自由な思いはしたことがなかった。
父はダンプカーの運転手をしていた。周辺の工事現場に資材となる土などを運ぶ仕事だ。
子ども心にも「ぐり石」これは基礎工事でつかう石の名前なのだが
「⚪︎⚪︎の現場に明日ぐり石3トン」と父が電話でやりとりしていたのを今でも思いだす。

父は運転手として最初は一人で請負でやっていたのだがやがて運転手仲間を束ね手配等を行い、自らも運転する傍らその手配料をもらうようになっていた。
いわば元締めといったところだろう。
当時の日本は「日本列島改造論」の余波を引きづり、あちらこちらで工事が行われていた。仕事は順調で当時の収入は母が後に「こんなに儲かっていいの?」というくらいの収入があったらしい。

当然仕事は多忙を極めた。休みは週1日あればいいところ。
毎日の夕食は家で食べるが、その後どこかに出かけてしまう。
休日も仕事仲間とどこかに遊びに行っておりいない。
酒をあまり好まなかったこともあり、
飲みに行っていた訳ではないと思うが
子ども心にも毎晩どこに行くのだろうと不思議に思っていた。
マイホームパパは都会の一部の家の話。
ほとんど家にいたことがなかった。
母は今でいうワンオペ育児。大変だったろうと思うが当時はどこの家も大体そんな感じだっ
た。
この一点からも「昭和」という時代はいいところばかりではなかったと思う。

話しがそれた。

父は神経質な人だった。
髪型は毎日きっちりとセットし、仕事に出かける時はきちんと折り目が入った
ズボンを履いて出ていった。
シャツも全て襟付き。
今思えばダンプカーの運転手なのだし、
もう少しラフな服装でもいいと思うのだが
それは彼の美意識が許さなかったらしい。
作業着を着ることもあったがその下は
いつも襟付きのシャツだった。

その神経質さ加減は私たちにも影響した。
基本口うるさく、私たちが兄弟で騒いでいる時や食事の際にお茶などをこぼした時など
大きな声で叱られた。
また仕事で疲れた時うまくいっていない時
なども如実に機嫌が悪くなり
母や私たちにあたった。
手を出されたことはなかったが、
父が家にいるだけでなんとなく
緊張感があった。
もちろん、家でのんびりくつろいでいた時もあったし、TVを見ながらの家族団欒もあったはずなのだが、思いだすのは当時父に叱られた記憶が多い。
父が夕食の後外出すると、
少しだけホッとした。

と、いうことで日曜日に家族揃って
出かけることもほとんど無かった。
当時としてはいい車(車は父の唯一の趣味と言って良かった)に乗っていたのだが、
それで家族揃ってレジャーにということは
無かった。

だがおそらく母にうるさく言われたのだろう。
ある日近くにできた鱒釣り場に家族揃って出かけることになった。
その釣り場は、自然の川の一部を堰き止め
そこに養殖した鱒を放流したものだった。
紀伊半島の田舎のことなので、川の水は
透き通っていた。川の中には30センチくらいの虹鱒がたくさん泳いでいた。
おそらく小学生低学年だった私は、有頂天になり早く釣りがしたくてたまらなかった。
釣り場では、釣り道具と餌も貸してくれた。
(勿論有料)
3メートルくらいの竹竿に道糸、ハリス
錘、釣り針だけの簡単な仕掛け。
餌は練り餌だった。

父に基本的な釣りの動作を教えてもらい
早速釣り始めたが、支給された練り餌では
たくさんいる小魚に練り餌を食べられてしまい中々本命の魚を釣り上げることはできない。
しばらくその状況が続いて、子どものことなので飽きてきた。
と、父は何やら川の石を裏返して、そこにいた
3センチくらいの黒い細長い虫(トビケラ)を餌に釣ってみろという。
同じく紀伊半島の山間部の出身である父は
川魚の釣り方を知っていたらしい。

効果は、てきめんだった。
放流されていた虹鱒がすぐに食いついてきて
入れ食いとなった。
この時に経験した魚の引きを今でも忘れることはできない。魚が釣り針から逃れようとする
必死の抵抗は、私の中にある狩猟本能と思しきものを呼び覚まし、忘れることのできない感覚となった。
そしてこの感覚が忘れられず、釣りは私にとって(釣りに行かない時期もあったが)生涯の趣味となり現在は自分でYouTubeチャンネルや
ブログも持つに至る。

結局この日は15匹くらいの虹鱒を私と
父で釣り上げた。魚は釣り場で鱗と内臓を
とってもらい家で塩焼きにして食べた。

その後、父が釣りに連れて行ってくれる
ことはなかった。父自身釣りは好まなかった
のだろう。いやいやながらの家族サービス
だったと思う。
またその後も家族で休みの日に、揃って
外出することもほとんど無かった。

高校を卒業した私は、進学のため
関西に移り住み、故郷を離れることになった
お盆やお正月、ゴールデンウィーク以外に帰省することは無かった。
父との関係は別に仲が悪いということも無かったが、特に親しくしていたわけではない。
父と息子の関係なんてそういうものだろうと
思っていた。

やがて私も結婚した。結婚の2年後に
男の子が生まれた。
父のこともあったので、家族の時間は
とても大切にしたし、休みの度に家族皆で
出かけた。幸い家族中はとても良いと自分でも
思う。息子とは一緒に何回か釣りに行ったが
彼自身は釣り好きにはならなかった。
まあ、人それぞれだ。

父は晩年は認知症を患った。
あの神経質な父が髪の毛も整えず
髭も伸び放題。
父が父でなくなっていくのを見るのが
辛かった。
81歳でこの世を去った。

今でも思いだす。
いやいやながら出かけた家族サービスで
川の中にズボンを折り曲げて浸かって
石を裏返しては、そこにいた虫をとっては
袋の中に入れていた姿を。
そのおかげでその日は虹鱒が釣れて
その後にその息子(私だ)は生涯の釣り好きと
なり、確実にその人生に豊かな彩りを添えてくれることとなった。

その鱒釣り場はだいぶ前に廃業したとのことだが、私の記憶の中では、透き通った美しい水の中を虹鱒はいつまでも泳ぎ続けている。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?