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メディアとデザイン─伝え方を発明する(1)「何だかわけのわからないもの」

「メディアとデザイン」は、多摩美術大学情報デザイン学科で2007年に始まった私のゼミ名だ。2002年に開催した個展の名称に由来する。「伝え方を発明する」はゼミのテーマである。これは、学科案内をつくるときに編集子がつけてくれたキャッチコピーをそのまま引き継いでいる。あまりにピッタリで感心したからだ。

2008年から09年にかけて『プリバリ 印』という印刷業界誌から大学でのことについて書いてほしいという依頼があって全12回の原稿を書いた。学校についてもう書くことはないだろうと思い、残しておくべくnoteに投稿することにした。

今回はちょうど10年前。2009年4月の原稿から。


何だかわけのわからないもの

4月の大学は人でいっぱいだ。キャンパス中に人があふれるが、ゴールデンウィークを過ぎると少しずつ減ってきて、6月には落ち着く。これを毎年繰り返している。

美大生は早くに自分の進路を決めた人たちだ。高校生の時から美大予備校に通い、夏休みも休まずデッサンや実技の練習に明け暮れる。6時間、7時間と絵を描いていても苦痛ではないからそういう生活ができる。
逆に言えば、実技入試に重きを置く美術大学には、何時間でも絵を描き続けることができる者しか合格できない。それでは多様性が確保できないからと、センター試験を使って学科重視で受験できる枠を設けているところもある。しかし、基本的には絵を描くことで大学に入ってくる。美術がすべての基礎なのだ。

私たち情報デザイン学科とて例外ではない。入学試験の実技はデッサンと視覚表現で、やはり絵を描く。何年間も毎日デッサンをして入学してくるのだが、入ったとたんにコンピュータだのインターネットだのと言われる。それくらいは覚悟しているのだろうが、インターフェイスだとか、インタラクションだとか言うともう言葉として通じない。

だから1年生には、彼らが得意とする「絵を描くこと」で情報デザインの基礎を学べるような演習を用意している。プログラミングも絵を描くことを通じて学ぶ。そういう試みを重ねて、美術に立脚した情報デザインをつくり出したいと考えている。

われわれがチャレンジしているような新しいジャンルは、旧来のデザイン領域のように、教員が持っている知識や技術を学生に伝授することで教育が成立するわけではない。ともに考えることで成り立っている。なぜなら「新しい」ということは、「何だかわからない」ということだからだ。
本当に新しいものはだれもそれを見たことがない。だから新しいものは、何だかわからないものとして現れてくる。言語化できるようなものは、すでに新しくも何ともない。

情報デザインというと「わかりやすさ」とか「使いやすさ」を追求するものと考えがちだが、ぼくはそれに疑問を持っている。たしかにユーザビリティやアクセシビリティはテーマになりやすく、社会から求められてもいるだろう。しかしそれはすでに社会の認知を得ており、あとは企業のデザイナーや研究者が考えて進めていってくれればいい。私たち大学に在籍する者は、可能性を拡げることに挑戦する役割を担っている。わかりやすさが邪魔になることもあるのだ。

しかし、そんな「わからないこと」にとまどう学生は多い。「情報デザインとは情報をわかりやすく伝えること」という考えから抜け出せないでいるのだ。もちろん、わざわざわかりにくくする必要はないが、わからないことで悩むこともない。少なくとも「何だかわからないもの」には、まだ見ぬ「新しいもの」が隠れている可能性があるのだから。

私のゼミでは何だかわからないものはそのまま放置する。わからないままにつくり続けてみる。ただし、プレゼンテーションはしなければならないので、何だかわからないということを適切に話せないといけない。何が何だかわからないままつくり続け、それを説明しなければならない重圧のなかで、潜んでいるかもしれない「新しいこと」を発見することに賭けているのだ。

「michi no oto」という学生作品がある。高層ビルから俯瞰で撮った高速道路の映像をリアルタイムで画像解析して、音を鳴らす作品である。
高速道路を走る車は、一定の車間距離を保って、だいたい同じ速度で走っている。だから、道路上に架空のゲートを設定して、そこを車が通過するたびに音を鳴らせば、メロディのようなものが奏でられるはずである。

と、そこまで考えたのはいいが、作者はそれが何であるのかわからなかった。たしか最初は、人が集い行き交うときにうまれるモノゴトをかたちにしたい……そんなことだったはずだ。しかし、それをかたちにしてみたら、そこに現れたのは、何だかわけのわからないものだったのだ。

デザインは問題解決だというが、この作品は何も解決しない。問題提起しているようにも思えない。技術的な開拓は何もない。作者はわけのわからない重圧のなかでつくり続け、それを仕上げた。しかも一旦完成させてからブラッシュアップまでしている。

私はそれを見ていて、そこに新しいものが潜在しているかどうかなんてどうでも良くなった。わけのわからないものはわけのわからないまま受け入れればいいのだ。確かなことは、わからないものはわかることを拡げてくれるということだ。
「michi no oto」は「道」と「未知」とをかけたダブルミーニングである。永遠に「未だ知らない音」を奏で続けてほしい。(2009年4月執筆)



追記:トップに挿図が来るスタイルに統一した(04.28)


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