浮いている女の子
六月の夕方、学校から塾に向かう途中、男の子がふと頭上を見上げると、女の子が宙に浮いている。
そう、それは女の子だ。鳥でもないし、風船でもないし、ドローンでもない。生身の人間の女の子が、空中に浮いているのだ。
とはいえ、それほど高いところに浮かんでいるわけではない。せいぜい大通り沿いに並ぶ桜の木よりも少し高く、ビジネスビルよりは少し低いところーーだいたい十メートルメートルから十五メートルぐらいの高さだ。
男の子は眼鏡の裏に両手を差しこみ、ごしごしと目をこする。そしてもう一度、眼鏡を所定の位置に戻し、目を凝らす。やはり間違いない。あれは女の子だ。背筋をまっすぐに伸ばし、両手を体の脇にぴたりとつけ、ぼんやりと前を見つめている。長い黒髪が、時折吹きつける風に大きくなびいている。空色の薄手のパーカーに、白いカーゴパンツを履いている。もし髪が長くなかったら男子に見えたかもしれない。遠目なのでなんとも言えないが、ひょろりとした体つきで、たぶん同年代の男子より背が高そうだ。ランドセルやバッグやポーチの類は何も持っていない。もし空に浮いていなくて、そのあたりを歩いていたら、どこにでもいる普通の女の子だと思って気にも留めなかっただろう。下から見上げているので顔まではよく見えないが、少なくとも、高いところが怖くて泣いているようには見えない。
その女の子が、いったいどういう原理で重力を無視して空中に浮いているのかは謎だ。男の子が大好きなヒーロー映画には、空を飛べるヒーローがよく出てくるけれど、それは超科学が生み出したパワードスーツのおかげだったり、実験中の事故で遺伝子が突然変異して特殊能力を手に入れたり、そもそも最初から地球人でさえなかったり、それなりに特別な理由がついている。だが、いま男の子の視線の先で当たり前のように空に浮いている女の子には、そういう特別なところは見受けられない。翼が生えているわけでもないし、緑色の肌をしているわけでもない。いたってごく普通の、どこにでもいそうな日本人の女の子に見える。歳はたぶん僕と同じくらいだろうな、と男の子は目を凝らしながら思う。学校で、あるいは近所で、その女の子を見かけたことがあるかどうか思い出そうとするが、顔がよく見えないから判断できない。
やがて、それまで空中で静止していた女の子が、ゆっくりと移動を開始する。
男の子は浮いている女の子のあとを追いはじめる。塾に行かなければいけないことが一瞬頭をよぎるが、今はそれどころじゃない。なんといっても、目の前で女の子が空中に浮いているのだから。まるで『天空の城ラピュタ』みたいに。
大人が歩くほどのスピードで、ゆるやかに上下動をくり返しながら、女の子は大通りの上空を音もなく移動していく。上空を見上げながら歩いているせいで、何度も通行人にぶつかりそうになる。「気をつけろ!」と怖い顔のおじさんに怒鳴られたり、赤信号の横断歩道を渡ろうとして思いきりクラクションを鳴らされたりする。男の子はそのたびに縮み上がって「ごめんなさい!」とぺこぺこと謝る。それからまたきょろきょろと上空を見渡し、すこし先を進む女の子の姿を見つけて、あとを追いかける。
ずっと上を見上げて歩いている男の子を見て、通りがかったおばさんが「ぼく、いったい何を見ているの?」と不思議そうに質問してくる。男の子は「ほら! あれだよ! あれ!」と言って浮いている女の子を一生懸命に指さすのだが、おばさんはそちらを向いても、ただ怪訝そうに首をひねるだけだ。どうやら浮いている女の子のことは見えていないらしく、呆れ顔で肩をすくめて行ってしまう。
その一方で、信号待ちをしているママチャリの後ろに乗っている幼い男の子が、ぽかんと口を開けて浮いている女の子を指さして、母親の背中を何度も叩いている。「ねえ、ママ、ママ、見て!」と。この子には見えているんだ、と男の子は思う。母親は「やめなさい、危ないでしょう!」と苛立たしげに振り返り、浮いている女の子の方角を見るが、「べつに何もないじゃない」と言って、青信号になると自転車をこいで去っていく。
どうやら浮いている女の子は、大人の目にはまったく見えないらしい。見えるのは子どもだけなのだ。これもどういう原理なのかは謎だ。もしかしたら、あの浮いている女の子は人間ではなく、幽霊や妖精のようなものなのかもしれない(それにしてはちゃんと足はあるみたいだし、羽根も生えていないれど、と男の子は思う)。男の子は懸命に浮いている女の子のあとを追いながら、頭の中でいろいろな仮説を立ててみるが、どれも推測の域を出ない。
しばらくすると、浮いている女の子の高度が少しずつ下がり始めていることに気づく。さっきはビルの五階くらいの高さを浮いていたのに、今は三階くらいの高さまで下がってきている。進む速度もだいぶ早まっているような気がする。さっきは大人が歩くくらいの速度だったので、それほど苦労することなくあとを追うことができたが、今は自転車をゆっくりと漕ぐくらいのスピードに加速している。男の子は息を切らして追いかけながら、頭の中に町の地図を思い浮かべる。このまま進んでいけば、町の西側に流れている大きな川と、そこにかけられた大きな橋が見えてくるはずだ。
男の子は意を決して、浮いている女の子に向かって大声で呼びかけてみる。「ねえ! ちょっと! 待って! どうしてきみは浮いているの?」
だが、女の子が声に気づいた様子はまったくない。今はもう、顔がなんとかわかるほどの高さまで降下してきたので、浮いている女の子が、焦点が合わない眼で前を見つめていることがわかる。あの子は眠っているのかもしれない、と男の子は思う。眠ったまま歩きまわる病気があるのだと、以前テレビで見たことがある。まるで催眠術や魔法にかかったみたいに、眠っているのにふらふらと歩きまわる病があるらしいのだ。もしかしたらあの子は、それと似た、眠りながらふわふわと空に浮いてしまう病にかかっているのかもしれない。
川にかかる大きな橋が見えてきたところで、女の子の高度が目に見えて急に下がり始める。まるでとつぜん地球には重力があることを思い出したかのように。そして、それまで大通り沿いの上空を進んでいたのに、進路を変えて、川の真ん中に向かい始める。男の子はあわてて全速力で駆け出し、点滅する青信号を間一髪で渡りきる。男の子は決して運動が得意ではない。太っているせいで、走るのはクラスでビリから二番目に遅いくらいだ。でもそんなことを言っている場合じゃない。いま、あの浮いている女の子に気づいているのは自分だけなのだ。周囲にいる大人たちに助けを求めたところで、きっと相手にされないだろう。大人たちには、あの浮いている女の子が見えていないのだから。あの子を助けられるのは僕だけなんだ、と男の子は強く思う。心臓がどくどくと脈打って、死ぬほど息が苦しいし、口の中には酸っぱい味が広がり、今にも吐いてしまいそうだ。信号が変わる寸前に横断歩道を渡りきろうとして、縁石につまづき、もろに顔から地面に突っ込むように転んでしまう。掌を擦りむき、顔がヒリヒリと痛む。
だがそれでも、男の子はすぐに立ち上がり、上空を見上げて女の子を見つけ、またあとを追いかけていく。
ついに浮いている女の子が、川のすぐ真上にさしかかる。男の子は土手の階段を駆けおりて広い河原に出る。太陽はもう今にも沈もうとしているところで、最後の光が、女の子を真っ赤に照らしている。この川はちょうど県境にある一級河川で、川幅もかなりの広さがある。いまの高度と速度からみて、おそらくあと数分もすれば、女の子は川に「不時着」してしまうだろう。そうなったら、あの子は泳げるんだろうか? もし意識がまったくないのなら、そのまま溺れて死んでしまうんじゃないか――
男の子は両手を大きく振りあげ、懸命に走りつづける。自分がこんなに長く、こんなに速く走りつづけられるなんて、そんな力が自分にあるなんて、とても信じられない。なにかが肉体的な限界を超えて、男の子を強く駆り立てている。それは、男の子が生まれて初めて身の内に感じる愛の力だ。自分以外の誰かの存在を強く想う力だ。浮いている女の子にはついさっき会ったばかりなのだし、もしうまくあの女の子を助けることができたとしても、ヒーロー映画のように自分のことを好きになってくれるわけではないだろう。男の子はどう贔屓目にみてもハンサムな少年とはいえないし、太っていて、口下手だ。あんなに可愛い子が(そのころには、ビルの二階ほどの高さまで下がっていたので、浮いている女の子が可愛いことは一目瞭然だった)自分のことを好きになってくれるなんて、思えるわけがない。
それでも、男の子は走りつづける。
絶対にあの子を見捨てちゃいけないと、男の子は頭ではなく、魂の奥底から感じている。うまく説明はできないけれど、男の子にはわかる――あの女の子は、今はちょっと浮いているけれど、それはあの子のせいじゃない。あの子は、ほんのちょっと他人より傷つきやすいだけの、普通の女の子なんだと。僕と同じように、あの子はただひとりぼっちなだけなんだ、と。
昨夜降った雨のせいで、川はいつもより流れが早くなっている。泥で茶色く濁った川の流れは、まるで固有の意思をもつ巨大な怪物のように見える。浮いている女の子の両足は、もういまにも、その川面に触れそうだ。男の子は少しも躊躇うことなく、河岸からじゃぶじゃぶと水の中に足を踏み入れる。六月でも、川の水はずいぶん冷たい。このままじゃ死んじゃうかもしれない、と恐怖で一瞬だけ足がすくむ。引き返したほうがいいかもしれない。結局のところ、あの浮いている女の子は、ただの幽霊のようなものかもしれないのだ。本当はこの世界に存在しないのかもしれないのだ。
だがそれでも、男の子は立ち止まらない。
息を切らし、寒さに震えながら、男の子は川の中に深く身を沈めていく。ついに足が川底につかなくなり、必死に泳ぎ始める。なぜ僕はこんなにも勇敢になれるのだろう? いつもはあんなに臆病なのに、どうして? それは男の子にもよくわからない。いま、男の子の頭の中にあるのは、あの女の子を助けることだけだ。
もしあの子を助けられなければ、とても大切なものを失うことになる、と男の子は確信している。言葉にはできないけれど、そう信じているのだ。
ついに、女の子の足があと数センチで水面に達するというところで、男の子は浮いている女の子に追いつく。
女の子の古ぼけたスニーカーと、ほっそりとした白い足首が、男の子の目の前にゆっくりと降りてくる。
次の瞬間、浮いている女の子が地球の重力につかまり、男の子の上にがくんと落下する。
男の子はあわてて両手を広げ、女の子を抱きとめようとするが、とても支えきれずに、落ちてきた女の子もろとも水中に引きずり込まれる。
ふたりはあっという間に川の中に沈んでいく。男の子は必死にもがき、水面に浮上しようとする。だが女の子の両腕が抱きつくように絡んできて、うまく体を動かすことができない。やがて息がつづかなくなり、口と鼻に水が流れ込んでくる。全身の細胞が空気を求めて悲鳴をあげるのがわかる。薄れゆく意識のなかで、僕は死ぬんだ、と男の子は覚悟する。一瞬、嘆き悲しむ母親の姿が頭に浮かぶ。ごめんなさい、と男の子は思う。でも、不思議と後悔はない。むしろ穏やかといっていい気持ちだ。少なくとも、自分は何か大事なものために死ねるのだから――
最後にもう一度女の子の姿が見たくなり、男の子は水中で目を開ける。
すると、すぐ目の前に女の子の顔があり、ぴたりと目と目が合う。じっと見ていると吸い込まれてしまいそうな、美しい黒い瞳だ。男の子はどきりとして、一瞬息苦しさを忘れる。冷たい水の中なのに、顔が火照るのを感じる。
気がつくと、女の子がずっと閉ざしていた口を開き、言葉を紡ごうとしている。水中なのに、楽器のように涼やかな女の子の声が、はっきりと聞こえる。
「今度はきみの番だよ」と女の子は言う。
突然、女の子の両腕が力を取り戻し、男の子の体を強く水面に押し上げる。
男の子はみるみる水面に浮上していく。まるで見えない手に引き上げられるように。
離れ離れになる瞬間、男の子は最後の力を振り絞って、女の子に向かって手を伸ばす。「いっしょに帰ろう」と、男の子は必死に呼びかける。
女の子は静かに首を横に振る。その顔には、長い苦しみから解き放たれたような、安らいだ微笑みが浮かんでいる。
男の子は浮いて、浮いて、浮いて――ついに水面に顔を出す。
それでもまだ、男の子の浮上は止まらない。
男の子の体が川面から離れ、宙に浮き始める。
全身からぽたぽたと水を滴らせながら、男の子は高く、高く、上昇をつづける。
強い風が頬を撫で、町がジオラマのようにどんどん小さくなっていく。目を開けて下を見ると、町の明かりが星のようにきらきらと輝いている。浮いている男の子は、ますます高く、高く、浮き上がる。雲を越え、成層圏を越えて、宇宙と地球の境目まで。
「今度はぼくの番なんだ」と、浮いている男の子は、薄れゆく意識のなかで思う。
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