番外編 その3(信州大学医学部創立75周年記念事業・記念講演)

アフリカの大地に人生を捧げた日本人医師の物語

信州大学医学部卒業生 故谷垣雄三医師の奇跡(要旨)

JICAニジェール前支所長 山形茂生氏

信大医学部と同窓会「松医会は」2019年9月8日、松本市のホテル・ブエナビスタ・グランデで医学部創立75周年記念事業として講演会を開催し、山形茂生氏(正面)が「谷垣雄三医師の奇跡」と題して映像を使い約1時間、講演した

はじめに

信州大学医学部、松医会、ご来場のみなさま、医学部創立75周年、おめでとうございます。このようなはえある記念事業に谷垣雄三先生について話す機会をいただきありがとうございます。
私は今年5月までJICA(国際協力機構)ニジェール支所におりまして一昨年の谷垣先生が亡くなったときに埋葬式に立ち会いました。その後、先生が残された施設、医療器材をニジェール政府への寄贈の手続きに関わらせていただきました。
私自身、JICA職員としてアフリカ専門になろうと、思っていましたので、谷垣先生がアフリカの人たちの健康のため死力を投げ打って献身されたことに尊敬しており、先生に関われたことがすごく喜びでありました。
本日はJICAとしての立場にこだわらずに、谷垣先生に畏敬の念を抱いた私の思いを含めてお話をさせていただきたいと思います。
谷垣先生は、医学部に入られたのは無医村の医師になりたいという志があったからと伺っています。そのたために専門外科医ではなく一般外科医を目指し、北海道の帯広協会病院では一般外科に勤務していました(1977年)。
その病院で谷垣先生は、医事新報に載っていたニジェールのウラン鉱試掘現場での嘱託医募集の求人記事を目にして応募されました。
記事を出したのは国際資源株式会社です。熊谷義也先生がその親会社のアラビア石油の産業医をしていて、頼まれて求人記事を出したそうです。これが谷垣先生を物心両面から支えた熊谷先生との出会いのきっかけとなりました。
試掘現場に赴いた谷垣先生は本格的にニジェールに関わるとは思ってはおられなかったのではと想像しております。単に医療環境に厳しい場所で医師の経験を積みたいという動きではなかったと思います。日本人技師7人の健康管理だけではなく現地の人々の医療にも奉仕さされました(1979年)。
現地は砂漠の中で遊牧民が多く、元フランス領だったことから公用語はでフランス語です。先生は仕事のかたわら、現地の小学校で、子どもたちと一緒にフランス語を勉強されたそうです。
試掘は予定より早く8か月で切り上げられ、帰国後、東京都江戸川区にある小岩病院に勤務し、そのかたわら、再度、ニジェールへ行きたいということで、模索していました。付き合いを断りフランス語の勉強を続けました。
厚生省(現・厚生労働省)に相談し、現在のJICAである特殊法人、国際協力事業団(現・JICA)を紹介されました。事業団には医療力部があり、部長、それに課長は厚生省からの出向の医師です。2人から多分、外務省の方に話が行ったと思います。ニジェールには大使館はありません。さらに外務省からコートジュボワールにある日本大使館に話が行き、同大使館がニジェール政府に話をしました。

講演_信大2

異例の長期専門家派遣

といいますのは、JICAの開発援助ODA(政府開発援助)の一環として、JICAから専門家を派遣するには、先方政府からの要請書が必要です。大使館がニジェール政府に接触した結果、要請書を取り付け、谷垣先生はJICAから医療協力単発派遣専門家として派遣されることになりました(1982年)。
この派遣は非常にめずらしいケースです。医療協力は通常、日本の医療機関が参加して5年間の期間を決め、目標を定めて専門家のチームを組んでプロジェクトとして協力します。単発専門家というのは通常、医療分野での国際会議等の出席のための短期派遣が普通です。長期に派遣されたのは後にも先にも谷垣先生お一人ではないかと思われます。
最初の10年間は首都のニアメに派遣されてニアメの大学医学部で教えるかたわら、国立病院で外科の治療に携わりました。これも珍しいケースです。通常、JICAの専門家の契約期間は2年間です。あとは1年ないしは2年間の延長は可能ですが、10年間も専門家としていらっしゃったのはほとんどありません。
先生は極めて誠実に外科治療を施しニジェールの人たちを助けられていたことは、外務省、厚生省、JICAも理解していましたが、先生が具体的に何をされているか報告書を出されていなかったので、日本側によく伝わらなかったという問題もありました。
しかし、ニジェールの人たちの間では評判が高く、JICAはそれを聞き10年間、延長したと思います。
この間、住民の医療事情に関心を寄せられ、この10年の間、8回、医療調査旅行をされています。この旅行には松本市出身の奥さま、静子さんが同行され、たくさんのスケッチ画を残されています。
ニアメでの専門家活動はいったん終了し、ニアメから東に方に770㌔離れたテッサワに、ご自身で外科治療施設・パイロットセンター、それに住居を自分のお金で建てて奥様と一緒に移住されてパイロット事業を始められました(1992年3月)。
これを知った国会議員や外務省幹部の方々はJICAに専門家として、支援すべきだと働きかけ、改めて専門家になられました。
ニジェールはアフリカの北の方に、位置し、サハラ砂漠が国の3分の2を占めています。人々はナイジェリアに接する南の方に集まって生活しています。テッサワはその真ん中ということで、谷垣先生は活動現場に選びました。
先生が最初に建てられたパイロットセンターはニジェール政府に撤収され、もともと沼地だった所に新たに作られました。

目的の技術協力確認

私は、JICA器材調査団に課長代理として加わり、器材の専門家、フランス語の通訳と一緒に行った(1993年8月)のは最初のセンターです。このとき、私は前年12月に医療協力部に配属されましたが、谷垣先生がテッサワに専門家として再派遣されたのはその2か月前でした。
「先生がテッサワでどういうことをやっていらっしゃるか、よくわからない。見て来い」と役員から指示を受けました。私は以前から谷垣先生に畏敬の念を抱いていましたので、機材申請が出た機会をとらえ、「ぜひとも行かせていただきます」と手を挙げました。
私が一番、関心があったのは、先生の活動が技術協力にあたるかどうか、つまりJICA事業の目的である技術協力の目的に沿っているかどうかを確認することでした。
先生にお会いして直接、お話を伺いました。先生は単に治療するだけでなく、ニジェールの地方の人たちが外科治療をどのようにしたら安心して受けられるか、そのための制度、方策を提案するためにパイロット事業として取り組んでいると、話してくれました。それと併行して治療のできる外科医、一般外科医を養成するのが目的だというのです。
それを伺いまして私は納得しまして喜んで本部にも外務省にもその通り報告しました。

医師、同級生らに支援の輪

これはテッサワのパイロットセンターの塀に谷垣先生を支援された方々、支援団体、支援者を記念した銘板が掲げられています。これらは1990年代の後半ものです。その方々をご説明します。
谷垣先生がニジェールへ行くきっかけを作った熊谷先生は、谷垣先生が一番、精神的な拠り所とされ、死ぬまで慕っていた方です。熊谷先生は総合医療研究会(総医研)を主宰しておりまして谷垣先生も有力なメンバーの一人でした。谷垣先生はニシェールには総医研から派遣されたとおっしゃっていました。
谷垣先生のJICAの専門家派遣が20001年、終了したときにJICAからの谷垣先生への送金がなくなりました。
熊谷先生、総医研の方々がNPO法人「アジア・アフリカにおける医学教育支援機構」を立ち上げて(2001年4月)寄付金を集め、資金的な支援をされました。
それから、信大医学部6回卒業生の東璋(ひがし・あきら)先生は谷垣先生が小川日赤病院に勤務されたときの整形外科の責任者で谷垣先生を指導されました。それ以来、横浜港北ロータリークラブのランドクルーザーや基金、機材の寄贈に協力されました。2009年に会員2人とともにテッサワを訪れています。
千葉県柏市の名戸ヶ谷病院理事長だった山崎誠先生(故人)は、医学部で谷垣先生の1年先輩です。谷垣先生は一時帰国されるたびに、この病院で健康診断に行かれました。
それだけでなく、1990年代後半、JICAが技術協力の一環として実施した谷垣先生推薦のニジェール人外科医2人の研修を同病院は引き受けています。
また、同病院の先生は、山崎先生の立言のもとに、2回テッサワに行っています。
谷垣先生の出身地、京都府京丹後市峰山町の同窓生を中心に地域ぐるみで支援しました。皆さんが谷垣先生のニジェールでの活動を知ったのは偶然のことだったようです。峰山町出身の方が熊谷義也先生のクリニックで治療を受けられたとき、募金箱が置かれ、谷垣先生への寄付金を集めていることを知り、これが峰山町に伝わり急きょ、「谷垣雄三医師を支援する会」が立ち上げられました。寄付金だけでなく、谷垣先生が手術のためにタオル、古新聞を集めて支援しました。今でも峰山町に石碑と記念植樹があります。2010年に同級生を中心とした方々がテッサワに行かれ、先生を励まされました。
国会議員の方々にも先生を支援されました。鈴木恒夫元衆院議員(横浜市港北区)は、谷垣先生が10年間の専門家派遣が終わってJICAから離れ、テッサワに行かれたときに、「非常に大事なことをしていらっしゃる。国として支援すべきだ」と、おっしゃって改めてJICA専門家派遣が決まりました。
それから3人の三原朝彦、三ツ矢憲生、西村明宏衆院議員は2006年にテッサワを訪問されて激励されています。
アフリカに対する医療の貢献に対し、日本政府からの野口英世賞というのがあります。谷垣先生に同賞を授与する話がありましたけれども、断られたということです。賞金は1億円です。住民負担による外科医療制度を構築するという目的が崩れるというのです。
しかし、私は先生の業績は「野口英世に勝るとも劣らぬ」と信じています。
先生は一昨年3月に亡くなられました。その前から健康を害され、センターの運営は現地の従業員に任せていらっしゃいました。看護夫2人、雑役をする人4人、警備員2人の計8人です。ただ蒸留水の製造だけは先生ご自身がやっていたと、後から従業員の人から聞きました。

看護夫が報告中、発作永眠

従業員の責任者のイスマエルという看護夫が毎晩、業務報告に行くのですが、3月6日夜9時ごろにイスマエル看護夫が業務報告している最中に先生は発作を起こされ、急いで県の保健省の医師、所長を呼んだのですが、介護のかいもなく亡くなられました。
イスマエル看護夫はコートジュボワール大使館に連絡し、私も別のルートで連絡を受けました。ちょうど川村裕大使はニジェールに出張中でした。出張期間を延長され、私もお供をして埋葬式に参りました。奥様のお墓の隣にイスラム式で埋葬されました。たぶん生前から準備をされていたと思います。
ニジェール政府側から大統領名代として州知事が参列し、ニジェールの医療改善に尽くされた先生の最期にふさわしいお見送りができたと思っています。
先生が亡くなった後、センターは医師不在となったために、保健省の命令で業務停止になっていました。従業員への給料がストップしていても、従業員は残り、早く再開してほしいと訴えていました。
しかし、先生に代わって働いてくれる日本人医師はおらず、先生のご遺族から、センターをニジェール政府に寄付したいというお話があり、私は代理人として譲渡の手続きに関わることになりました。
2010年、峰山町からテッサワを訪れた人たちの中に若い女性弁護士さんがいらっしゃいました。日本にニジェール大使館はありませんが、東京に名誉領事館があります。その領事館の担当者と、その弁護士さんのおふたかたの連携で、代理人としての私の公的な立場を明確にしていただき、そのお陰で譲渡が進みました。 
譲渡のあと、センターは多少の改修工事をし、テッサワには県病院がなかったので、「ドクター・ユウゾウタニガキ県病院」と改称されて再開しました。テッサワで生まれ育った若い外科医2人が配属され、運営は軌道に乗っているという報告を受けています。
先生のご自宅は、住民の健康のためにという政府と住民の意向受け、産院付きの「マダム・シズコ・タニガキ保健所」となりました。この敷地には、おふたりが眠っています。そこで毎日、産声が聞こえているという報告があります。
先生は日本語の報告書は作っていません。ニジェール、および同じような状況の開発途上国で、人々が少ない収入でも不安がなく外科治療を受けられるよう改善するのが先生の目的でしたから、日本語の報告書は必要がないと考えられたと思います。

仏語で外科実践ガイド

2007年にフランス語で地方外科実践ガイドとして活動報告書をまとめています。同年4月、ニアメ市内のホテルで保健大臣を含む同省職員や関係者葯50人を前に、この報告書を発表されました。先生はこの発表をもって活動に一段落を付けられたのではないかと思います。
この時期に一時、センターを休業して、その数か月後にスタッフを一新して再開されています。それ以降、スタッフの育成に重点を置かれ、パイロット事業としても調査を終えたとういう認識だったと思います。
2010年、活動報告書を英語とフランス語で作成し、亡くなる前年まで毎年、改訂作業を続けられました。活動報告書は電子情報にもなっています。簡単に共有できます。
残念ながら、この地方外科実践ガイドはニジェールでは活用されているとはいえず、ほとんどが忘れ去られています。
けれども、先生の献身的な奉仕が多くの人の心に残っています。ニアメ病院時代の同僚が先生の活動を記録しようと関係者から取材をしています。同僚は、赴任したばかりで不慣れだった言葉も含めて先生を支えました。いずれ本にまとめ刊行するそうです。刊行されたら、日本語に訳にしたいと思っています。

手術1日に2件

ところで、先生は日本語の報告書は作成していませんが、ご自分の声で支援者に活動を紹介するビデオを何本か作っています。そのうち2005年10月に業務報告として提出した1本があります。
その中で、3点について日本での検討を求めています。いずれも先生が安全だと確認しています。
▽術後の感染を防止するため、一般外科での抗生物質は不必要。
▽結紮糸(けっさつし=外科手術で血管などをしばる糸)は吸収糸を使用する必要がなく、太さは問題ではない。
▽手術用手袋はお勝手用を使用しても問題がない。薄い手袋が早い手術に結びつくという固定観念を廃していただきたい。
先生は1992年から2009年までの18年間の診療結果をまとめています。
手術件数は1万2000件強です。年平均で673件。ニジェール人研修医によるものもあるでしょうが、ほとんどが先生の施術で、土日を含めて1日平均2件となります。
患者が支払った治療費は診察、X線撮影、内視鏡ともそれぞれ5000CFA(セーファーフラン)、日本円で約1000円です。手術は、どんな手術でも1件約4000円に設定しました。ニアメの国立病院では子の10倍以上するそうです。経常収支は赤字となっています。それを解消するにはすべて料金を2倍にすべきだと結論づけています。

肉声で「ビデオ遺言」

先生はこのビデオを制作したあと、10年以上、はテッサワで医療活動を続けるのですが、今、聞きますと、先生はビデオで遺言を残されたと思えます。
最後に先生の声による「感謝の言葉」を文字と一緒にお見せして終わりたいと思います。
「いくたびとなく機材をお送りいただき、給料をささえていただきました外務省、JICAに厚くお礼を申し上げます」
「長い年月を全力で支えていただきました熊谷義也先生、有難とうございました。このビデオは熊谷先生なくしてはありません」
「いつも話すことをメモし、良き理解者で一度だけニジェールだからといっていい加減なことをしないでねと言ったなつかしい、なつかしい静子に有難う」
「ご支援をいただきました皆様ありがとうございました」(以上、映像)。
ご清聴ありがとうございました。
(1時間8分)

講師山形氏1

山形茂生氏



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