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【短編小説】ろくでもない

「ろくでもない奴だ」

 こんなはずじゃない、自分の力が発揮できる仕事があるはずだ、などと思う気持ちは、若い頃に捨ててしまった。

 ほとんどの人が、スーパースターのように光を浴びることはない。小さな労働力は会社に貢献するため、歯を食いしばって一生懸命働く。ストレスを溜め込む毎日に耐えた先に、給料日がやって来る。新卒でこの会社に入って25年、自分の立ち位置は痛いほど分かっている。

 己を奮い立たせ、声を上げても仕方がない。正確には、意味がない。私に一般社会で活躍できるだけの力があれば、社内のみならず社外の評判も良かっただろう。流行りのキャリアアップも夢ではなかった。

 それに、トイレからデスクに戻った時の周囲の冷たい視線や、突然コソコソ話が終わったことを伝える微妙な空気を気にする必要はない。ストレス発散に、SNSで芸能人やスポーツ選手を攻撃する必要もなくなる。



 営業先の近くの公園で、時間を潰すためにサラリーマン人生を振り返っていると、一人で力強く散歩する白髪の老人に出会った。一丁前にくたびれた靴を履く私のことを下から舐めるように見た後、老人は何も言わずに近くのベンチに腰掛けた。不自然というより恐怖を感じる行動に我慢ができず、私は相手を刺激しないよう慎重に声をかけた。

「あのぉ、すいません」

「ん、なんじゃ?」

 声をかけられたことに驚く老人の姿を見て、私も心の中で驚いた。今、必死に記憶の海で老人の顔を探しているが、どこにもヒットしない。

 何かが突然降ってきたのか、老人はハッとした表情をみせた後、所々欠けている黄色い歯を見せながら、

「わしは昔、国語の教師をやっていてな」

 と言い出した。

「わしには、あんたの悩みがよう分かる。顔にそう書いてある。当時、生徒の表情をみただけで、いじめや家庭の問題を解決したことがあるんじゃ」

 私は真剣に取り合わず、愛想笑いを浮かべた。

「凄いですね。いやぁ、お父さんには適わないな」

 くたびれた靴に1つ、しわが増えた気がした。愛着が湧き、また捨てにくくなる。

「あんたの悩み、解決しようか?」

 頼んでもいないのに、老人が急にやる気を出してきた。

「いつも、会社で『ろくでもない奴だ』って怒られているじゃろ。他にも、『ろくすっぽ働かない』って社内で噂になっている」

 どこからか、学校のチャイムが響いてきた。時刻は12時を過ぎたところ。会社の連中もお昼休憩に入ったに違いない。

「真面目に勤めてはいるが、結果が出ない。社内での存在が年々薄れ、今のポジションにいる。そうじゃろ?」

「いやぁ、大きくは外れていないですね。今朝も部長に怒られたばかりだし」

「そうじゃろうと思った。ろくでもない奴キャラが定着しつつあるんじゃな」

 言葉に詰まることなく、スラスラと会話する老人に、得体の知れない恐ろしさを感じた。こんな人物、一生に1度出会えるかどうか分からない。私は両手に汗をかいていることを確認してから、頭に浮かんだ疑問を率直にぶつけた。

「以前、どこかでお会いしましたっけ? あまりにも私のことを知っているので」

 気づけば、公園内にサラリーマンと思われる男女がゾロゾロと集まり始めていた。みんな、弁当袋を持参している。

「いや、知らない」

 老人はそう言うと、何故か嬉しそうに話を続けた。

「わしの特殊能力じゃ。理由は分からんが、ある日から突然力が宿ったんじゃ。この力でどれだけの生徒と家庭を救ったかと思うと、誇らしくて夜も眠れんわい」

 私は老人に悩みの全てを打ち明けようと思ったが、これ以上痛い所を突かれても困ると思い、飛び出しかけていた言葉をグッと飲み込んだ。空腹を感じていた胃袋へと届き、気分の悪い満腹感に襲われる。夏場、水分ばかり摂って胃がチャポチャポになるように。

「まぁ、心配することはないぞ」

 老人は黄色い歯を見せ、ヒマワリを想像させるような満面の笑みを浮かべた。

「ろくでもないの『ろく』は、物事が正しいことや真面目なことを表していると言われているんじゃ。長年、会社のために真面目に働いてきたあんたにピッタリの言葉じゃないか」

 キーンコーンカーンコーン。

「それ、本当ですか?」

 私は食い気味に聞いた。いつまでも心に残り、今まで見えていなかった領域に辿り着けそうな予感がした。

「あぁ、本当じゃ」

 老人は電池が切れる寸前の人形のように、ゆっくりと首を縦に振った。

「ありがとうございます。なんか、凄く元気と希望が湧いてきました」

 私は右手を握りしめ、思わず天高く掲げた。視界が開け、頬の温度が上昇し、心臓が高鳴っていることを感じながら、子犬を見るような目で老人の顔を見つめた。

「今はもう、否定する時しか使わない印象じゃがな。『ろくでもない』、『ろくすっぽ働かない』って、明らかにマイナスイメージじゃもんな」

「お父さん・・・」

 老人は腰を気にしながらベンチから立ち上がると、私の右肩にポンっと手で触れてから、力強い歩みで公園から出て行った。光でもなければ影でもない、経験を重ねた人にしか出せない独特の空間がそこにはあった。

 私はここ5年で、1番心と体が軽い気がした。俗に言う「ととのう」人と似た感覚かもしれない。録画しておいたお気に入りの番組を繰り返し視聴するように、老人の言葉を何度も脳内で再生させる。学校のチャイムが響き、夢心地から覚めるまで。


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