どうにもならないことと向き合うこと

どうにかなることとならないこと。どうでもいいことならいざ知らず、思いを込めて必死にやっていることにおいて動じない心を持つことは非常に難しいが、動じたところでその動揺により本人のパフォーマンスがそのほかのことに影響することもあるだろう。

信念が、想いが、こだわりが強いことこそ難しい。
また、大量の時間を注いで、その道のりにおいてもたくさんの努力を注ぎ込んでいる場合にこそ難しい。

最近、「その気持ちと現実のギャップを、個人のものにするではなく、何かもっと前向きなことの学習の機会として活かすことができないだろうか?」と思う。仕組みを憎んで、事柄やそれに関わっている人に対して特別な感情を抱かず、システム思考的な視点で、総合的な構造的な問題だと捉えることが非常に重要だと思う。自分から見えていることなんて、大した範囲ではなく、見えていないことにおける本当の問題点を透けて見ることができるか。何か起こってしまった事柄の原因と思われる人だって、仕組みの被害者で本当は助けてほしいと思っているかもしれない。であれば、共同戦線を張らない選択肢はないだろう、やるしかない。

ただし、現実の難しいところは、本人には見えていない問題について認知するためには、仮説思考といえば格好いいが、言ってしまえば想像力や共感力といったEQが重要になってくると思う。人事を尽くしてとは、単に本人が注ぎ込んだ努力のことだけではなく、そうした様々な取り組みのことだと思う。

こうした視点に立つと、仕事の成果やパフォーマンスとは一体どのように評価されるべきなのかと悩む。会社からつけられる評価は多分、本当にしてもらいたい評価ではない(されるに越したことはないが)と思う。また、報酬についてもその適切性とはあくまで会社の収益の分配としてはロジカルな世界があるかもしれないが、それが人自体の評価を表すわけではない。

どうにもならないことに心穏やかにいながら、そのどうにもならないように見えていることをなんとかして動かせるような、真の問題解決に向けて、静かにやる気にみなぎっている。

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