『PERFECT DAYS』聖地巡礼と、役所広司の軽薄さについて
『PERFECT DAYS』観ました、という記事を書いてから一週間後、前橋まで出張する機会があり聖地を巡って来た。九州民からすると前橋も東京も同じだしっていう軽々しい気持ちで行ったんだけど、東京から前橋はめちゃめちゃ遠かった。
旅の目的は、平山さんが住んでた街を見ること。街を見ずにはわからないと思った。街を歩きたかったから映画には関係ない写真もある。でも、その街で昼飯を食べたりすることの方が僕には大切だった。
旅の画像だけだと面白味がなくなるので、文章は平山さんについて書いていこうと思う。ネガティブ要素があるかもだけど僕はこの映画が好きです。それでは始まり。ネタバレあり。
その1
3月1日金曜日、羽田空港からスカイツリーを目指した。平山さん家のすぐそばにある歩道橋に到着した。雲ひとつない晴れた日だった。とりあえずBOSSのミルクを買って写真を撮った。
平山さんが住んでいたアパート。今思えば、平山さんは中にある階段を使っていたのに、外に階段があるのはなんでだろう。全部の部屋が同じ作りじゃないのかもしれない。
1階にキッチンがあって、物置がある3Kの部屋とのこと。家のトイレを掃除してるところは映画に出てこなかったな。むしろ排泄のシーンがなかったような気もする。平山さん自身がトイレを使用してないのであれば、けっこう意味のある(シーンとしては無いのに)ことのような気もする。
近くの神社に参拝。ここの神社の掃除の音で目覚めてるんだよね。ザッザッという。
神社は違うんだけど、作中に「木の赤ちゃん」たちが出てくる。あれは、10年とか20年とか経っている苗木だったりするそう。でも、平山さんがこの生活をはじめて10年とか20年とか経ってる気がしないんだよな。ここ3~5年くらいの話だよね。ということは木を育てるのは、ずっと前からの趣味だったんですかね。そう考えると不思議な感じがします。
せっかく街に来たので、御朱印を買ったり、近くでランチしたり、珈琲飲んだりしてみた。この辺は平山さんが通ってるわけじゃなさそうだけど、リアルに住んでたら一回は行ったことあるんじゃないかと思って。
平山さんは自分の気に入った店にしか行ってないようだけど、その店に辿り着くまではどんな物語があったのか考えますね。たまたま行くにしては、浅草とか遠いんですよね。
その2
とりあえずスカイツリーの麓までは行こうと思って移動した。
川沿いに来てみた。おそらく影取りのシーンはこちら。影が薄くなっていくということ、重なったら濃くなるのかということは、めっちゃ大きいテーマだと思っていて。
誰か、僕と影が重なる遊びをしてくれないかと思っていた。
すると鳩が一羽やってきて、けっこう長い間、側にいてくれた。ありがとう。君のことは忘れない。
で、カンカン照りの太陽であれば、影の濃さは変わらないということを実感。でも、夜来てないからわからないけど、光源が幾つかあったら違うかな。夜の闇の中、街灯がところどころにあって、ぼんやりとした光が幾つもあったら、重なり合うことで影は濃くなるかも。
薄い光の中であれば、重なり合うことで、僕らの影は濃くなるのかもしれない。
橋の上を越えて浅草方面へ。
「今度は今度、今は今」っていう台詞あったけど、理性を取り戻して考えると「無責任なコメントをイケてる感じで言ったらそれっぽい選手権」があったら、けっこう上位に来る言葉だよ。平山さんが発した重要な台詞ってあんまりないけど、これも実は重要じゃない言葉なんだと思う。
言葉に重要なものはない。
平山さんと同じものを頼みたいと思って、焼酎の水割りを頼んだところ、店には芋焼酎しかないけど平山さんは麦焼酎を飲んでいたとのこと。チッ。しょうがないので生ビールも飲んでやりましたよ。平山さんはここで毎日2000円くらい使ったのだろうか。毎日同じもん食べてたっぽいよね。
浅草は、毎日飲みに来る場所としては、めちゃめちゃ遠いと思う。
正直、自転車で雨の中、カッパ着てくるようなところではないね。風呂入って一杯飲んだにも関わらず、身体めっちゃ冷えると思う。そういう距離感みたいなものを確かめに行った。東京ツアー。
来て良かった。
その3
前橋からの帰り、渋谷に寄って幾つかトイレをまわってきた。平山さんが掃除していたトイレたち。東京の人には日常使いのトイレなんだろうな。
言うてもトイレなんで、そんなに綺麗なわけないだろう。と、映画を見ているときは思っていたんだけど、本当に綺麗なトイレたちだった。東京のトイレを世界に紹介したいというプロモーションビデオとしては、本当に素晴らしい仕事をされたのではないでしょうか。(敬語)
Threadsで、製作委員会とその軽薄さに文句言ってる人がバズっていて。それにこっそりアンサーするつもりで、以下のような文章をあげた。
そしたら本人から引用RTが来て。読まなくてもいいけどリンク貼っとく。この映画、大好きな人じゃんって。
こういった答えを返した。
要は、ヴェンダースと役所広司は、商業主義的な部分では作品を仕上げつつも、やはり意識的に「軽薄さ」を平山さんの中に忍ばせたんだと思う。それは、この文章の初めにでてきた「木の赤ちゃん」もそう。10年も20年も前からこの暮らしをしているはずがないのに、っていうリアリティの無さ。
でも、その軽薄さは我々自身の中にあると思うんだよね。この深いようで、本当に深かったらわからないところを絶妙に刺激してくる匙加減。だからこの作品が好きなんですよ。
例えば、茶道ちょっとやってみたいけど、茶道を本格的に始めたら大変そうだなっていう感覚に似てるかも。
でも生きていくし、いつか死ぬ。そういう映画だったなあと思う。
終わりに
ちなみにラストシーン、役所広司が様々な感情を表情に浮かべながらの帰り道。これ、死ぬかもしれないと思いながら見てた。
とりあえず明日が続いて行くみたいで良かったなと、ほっとした記憶がある。その記憶が本当かを確かめるために、もう一回見に行こうと思う。
東京に行ったら、また福ちゃんにも行こうと思う。水割り飲みたくなってきたな。芋の。
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