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文章を書くことが苦手
文章を書くことが苦手だ。テキストを通じて何かを伝えたり、
表現することが。だから私は文章を書かなければいけないと思った。
いきなり変なことを主張してしまいました。
記念すべき初の投稿記事になる予定なのに。
でも、だからこそ書いておきたいと思ったのです。
私は文章表現が得意ではない。文字を一行書くのにもすごく時間がかかるし、時間をかけて書いた文字も、少し経って見直すと、どうもこうではない、自分の感情に即していないと感じてしまう。
人の感情が一か所に定まっていることなどおおよそないだろうけれども、それを踏まえても私の感情や思考はやはり大きな変動性を保持していると思う。自分の中身を、思考を、外に吐き出す時間にラグがありすぎて全然追いつかない。書きだしている間に中身が変わっていってしまう感覚。CPUの性能が悪すぎてどうにもならない。人間も新しいパーツに付け替えられればいいのだけれど。
天邪鬼な気質も加わりもう自分自身でも手が付けられない。そんな中で文章で何かを表現するという作業は私にとってかなり苦手な部類に入る。と思っていた。
実はこの話題について書きたいなと思ったのは2020年の事。(公開まで何年かかるのだ?)noteの下書きの日付を見るとアイスを上手に食べきるのが難しい、そんな季節の数字が。その間、常にこれを書こうとしていたのかというと全くそんなことはないし、ほかにも多く残る下書きの断片を見ると、思いついた書きたいことを完成させることはやっぱり達成できていないようだ。
しかしこの月日の中で私には気付いたことがある。私は文章を書くことが嫌いなわけではないのかもしれない。私が苦手とするのは「人に理解されるため(もしくは情報を伝えるため)に必要な、瞬発力のあるテキストコミュニケーション」なのではないか。
要は考え方、捉え方の話。今まで私はそもそも文章は時間をかけずとも(あるいは思考と同等の速度で)書けるものだと勘違いをしていたのだ。それはある種 文明の利便性が生んだ弊害なのかもしれないけれど、例えば自分の感情や考えをその場で口から発すること、身振り手振りで伝える事、それらと同じように思い浮かぶことを入力すれば文章は完成する、と。
その勘違いの中私は、思っていること、考えていること、主張したいことを精査して比較して確認して納得して、、、それらを文字に起こす作業が遅いから、考えていることや伝えたいことをすぐに文字に出来ないから「文章を書くことが苦手」という自己評価に落ち着いていた。
現在もスピード感の必要なビジネスメールや、ラリーの早いlineでのコミュニケーションはとても苦手だと感じている。しかしこれらはひとえに文章の持ち合わせる性質を理解していないからではないかと思慮する。
私が嫌だと思うのはそのスピード感(あるいは渦巻く思考をまとめるために要する時間)であって、文章を起こすという作業に対してではない。となると私は様々な表現方法やコミュニケーション それら、それぞれの得意領域や性質を理解しきれていないのでは?
現代社会が情報に求めるスピードはかなり速く、正確で迅速な、いわゆるレスの早い人間が評価されやすい傾向にあると私は錯覚している。もちろん、的確で分かりやすいビジネステキストを早急に送り返せる人間は処理能力に優れているだろうけれど、しかし文章にはそれらのスピードばかりを求めなくてもよいのではないだろうか?
本当にスピードだけが必要なら、電話じゃダメなの?電話は人の時間を奪って失礼だなどとよく言われるけれど、、、じゃあメールを打っている私の時間は??
ここでふと思う。文章の得意な性質って何だろう、、?
私が思うに文章の得意な(あるいは特異な)性質は「保存され、保持されること」ではないだろうか。自らの中で現れては消える思考や感情、その時にしかない(あるいは最も高まっている)情熱や感動、もしくは後悔や悲しみ、憎しみ。それらを「残せること」。同じ熱量を保ったまま「保存出来ること」。
あるいは思考思慮を巡らせている事柄に対して正しく寂しく向き合う事、思考 思慮 理解を深めていくこと。ある種発酵のような「保存」。
もちろんそれらがそれぞれの目的によって大きく変わってくることは重々承知している。そりゃ確認のメール返信は早いほうがいいし、様々なコンテンツは大量、高頻度の更新が求められるし、lineも狙ってる相手にぐらいしっかり返信してみやがれって。 分かる、分かるよ。
でも、そうじゃなくって、私が言いたいのは「文章との付き合い方って
それ以外にもあるんじゃないのかい?」って話。
ビジネスの最効率化や資本主義社会での大成を狙う人間からすれば全く異なる意見も出てくるだろうけれど、あいにく私はビジネスチャンネルを目指している訳でもなければ、意識の高いTwitter運用者でもない。
文章って本来もっとゆっくりゆっくり向き合っていいものなんじゃない?
と今日の私は思うわけです。(2022年1月25日)
特に生産性や正確なコミュニケーションを求めない文章については、幼いころ子供達がピカピカの泥団子に憧れ、それを目指す過程のように、何度も砂をかけて、乾燥してしまってひび割れて、補修して崩して、草むらに隠して、見失って、、、そんな風に作り上げていっても良いのではないかと思うのです。
もっと遊んで、わがままに楽しんでいいんじゃないのかいな?
というのも、最近自分が大学時代に書き上げたレポートを見る機会がありまして。テーマは「スポーツの魅力について」私の学部ってなんだったっけ?という話はさておいて、もう7年も前になる文章にも関わらず、読んだとき「なるほど確かに」と大きな納得感を感じて驚いたの、本当に。
確かこのレポートは毎週出される課題で字数も多く苦労した記憶があるけれど、幸いにも大学生には高等遊民と呼ばれるほどの無限にも感じる時間があり、毎日数時間ずつ課題に取り組んでいたのでしょう。たしか10時間ほどかけて完成させたこのレポートはその週の最優秀に選ばれ、300名ほどの生徒の前で音読させられた、といういらない記憶まで思い出してしまったけれど。
とにかく読むまで、見つけるまで完全に忘れていたこの文章は、3分で読み終えられ、当時の私の思考を鮮明に復元させてくれたのです。確か担当講師の著書も賞品としていただいた気が。(そんなこともどうでもいい)
要はそんな文章を書きあげるにはしっかりと時間をかけて、30分や1時間で出来上がるものだとは考えず、あるいは投稿予定や校了日なども気にせず主張したいこと、思考したいことに対してしっかりと自分に向き合うこと。慌てずゆっくりと、そうやって書き上げた文章はきっと5年後、10年後に見返しても納得や理解のできるものになっていると思うのです。そんな時間が自分の癒しにもなってたりするしね。
まぁ、つまりは日常のその他に使っていた時間を割り振るという事なので、投稿頻度があり得ないほど遅いか、それともその他の日常生活(今まで時間を共有していたものや人)とのつながりが薄くなるか、2つに一つなのですが。
極端なことを言えば、ビジネスコミュニケーションに必要な文章以外は最悪ほかの誰にも何も伝わらなくてもいいのではないかと思っています。
ではそれらの存在意義はなんなのか。
それはきっと自分と向き合うため。自分と向き合ったしるしを残すため。
未来の私にヒントを、落胆を、希望を与えるため。
それぐらい自分本位で、わがままで、気ままでいいのではないでしょうか?だってこれでご飯食べてるわけじゃないんだもん。ちゃんと働いてるんだもん。
「ジャアナンデコンナブンショウヲコウカイシテイルノダ」と無粋な者共に問われるときっと、心の奥底で誰かに理解して欲しいからとか、思考を知ってほしいからとか、様々な恥ずかしい下心を説明しないといけなくなるのでしょうけれど。それはまたの機会にという事で。だってみんなもそうでしょう?
これだけ長くだらだらと文章と向き合っても、やっぱりそれらが嫌だとは全く思わないので、私は文章を書くことは苦手ではないようです。
皆さんも文章で遊びませんか?思いがけずに楽しいですよ。
私も新しいTwitterでも始めてみようかしら。
yasu
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