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スピノザの神学的読み方

 考えてみれば現代においてスピノザが流行しているのはおかしな話だ。
 「エチカ」の第1部は「神について」なんだけど、読めばすぐに実に奇妙な論述だと分かる。
 スピノザは神がどのようなものであるかとか、人々が神についてどう考えているか、については一切触れず、神の存在はこれだと断定しているんだな。
 スピノザは神が無限の属性から成り立っていると論述するだけだから、キリスト教徒にしてみれば、愛はどこへ行った?ということになるだろう。
 アクィナスの「神学大全」も第一部は神についてだけど、スピノザと似ているのは編構成だけで、論述の仕方はまったく異なっている。
 アクィナスは先行する神学者の著書や聖書を網羅的に踏まえて自説を述べている。それは現代人の論文とまったく同じ方法だ、ってかアクィナスの方法が現代の論文形式の基礎になっている。アクィナスは当時の大学教授だったからね。
 ところがスピノザは完全なオレ様野郎で、先行研究なんか一切言及しないんだな。せいぜい自説に反論しそうな考えを想定して反駁しているだけだ。
 だから、それはスピノザの個人的妄想であると思われても仕方ない。
 少なくとも現代のアカデミックな世界では、このスタイルの論文では査定に通らない。
 だって色んな概念でもっともらしく論述されているんだけど、何故に、という説明がないからだ。だから神の存在について、おまえはなぜそんな完全な知識を持っているのか、疑問に思うのは当然だろう。アクィナスでさえ、神の存在については人間理性では到達することができず、ただ恩寵によって無限に近づくだけだとしている。
 ということはスピノザは人間理性を超えているということだ。そう前提しない限り、「エチカ」をまともに読むことはできないはずだ。
 スピノザ研究者はその驚きをあまり強調しないんだけど、私は驚く。

 ならばそうした前提抜きで、つまりスピノザは超人ではなく、自分と同じ人間なんだという前提で「エチカ」を読むにはどうすればよいか。
 神学的方法を参考にすると、神学ではまず自分自身を内省し観察して、そこから神の存在を導き出すんだな。
 例えば、思考は質料を持つか否かと観察すると、どうも質料はなさそうだ。すると思考は質料なき純粋形相ということになる。それを認めてしまえば神への道が開くわけだ。
 質料なき純粋形相とはオカルト的にいえば霊的次元だけど、カントの先験的領域もフッサールのノエシス・ノエマも、ありゃ霊的次元ですよ、質料がないんだから。
 ところがよく分析してみると質料があるかないかという単純な二分法ではなく、思考が質料に囚われていることが分かる。
 なぜなら質料についての感覚データがない限り思考が始まらないからだ。とはいえ、感覚データを記憶してしまえば、質料抜きの純粋形相になる。
 そういう意味で、神学では人間精神は質料に囚われたものとして、純粋形相の中では神や天使についで最下層のものとしているわけだ。天使が中間にあるのは、神の被造物としての純粋形相だからだ。
 カントやフッサールが神学者と同じ方法で純粋形相を見いだしながら、そこで探究を自粛したのは神なき世界においては当然だろうが、知的欲求そのものを解放していないように思う。カントははっきり理性の本質には理性を超えたものへの欲求があると述べている。なのに探究を自粛するのは、理性の本質を完成させていないということだ。アクィナスは自力では不可能だが恩寵によって完成させることができるとしている。
 まあ、事の当否は別として、自分自身を内省して神へ至るという方法はそれなりに説得力がある、と私は思う。
 ならば「エチカ」の読み方として、江川隆男も推奨しているように、第一部を後回しにして、自分自身を出発点とするという意味で、第三部の「感情の起源と本性について」から読み始めるのがいいだろう。
 それは第一部が難解だからという消極的理由ではなく、自分自身を出発点にすれば、ヨリ確かな納得が得られるという積極的理由によるものである。それは神学の方法と同じである。
 

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