スピノザのコナトゥス概念
考えてみると延長と思惟によって自分が構成されているのは確かだけど、だからといって自分が延長と思惟であるわけでもない。
どういうことか?
つまり自分という存在は、何らかの力が原子分子の延長物体を自分に向かって引き寄せたうえで自分を構成させているのであって、原子分子の延長物体にしてみれば、この自分という私の身体を構成しなければならない義理はないんだな。
(観念についても同様だがややこしくなるので、延長物体だけで考える。)
だって有限様態が動くには、常に他の有限様態が原因となって作用を及ぼす必要があるからね。
例えば空気や食物の分子は、呼吸や摂食活動によって自分に引き寄せられているのは確かだけど、だからといってそれらの分子が自主的に私の身体を構成しているわけではない。何らかの力が摂取した分子を動かして、私の身体を構成しているのだ。それは何か。
生物学者なら簡単にそれはDNAだと言うだろう。
海外ドラマではFBIが遺留物のDNAを解析して犯人の顔を再現するという話があるが、あれは満更デタラメでもないらしい。顔を構成する遺伝子の因子が発見されたので、現在はムリだが将来は可能になるかもしれないと言われている。ただ現在は精度が低すぎて冤罪の危険があるから実行されないだけで、実験開発は進められているらしい。
だからDNAに基づく複雑な化学反応つまり電磁力によってイオン化された分子が私という身体を構成しているわけだ。
だけど、それは問題を先送りしているだけなんだな。
ならば、そのDNAを構成する力は何か。それは親のDNAのコピーとしてである。ならばその親のDNAは・・・と遡ると原DNAに到達する。
スピノザの時代にはDNAなどはなかったから、単純に人間身体について議論しているだけだが、それを原DNAに置き換えれば同じことだ。
そのDNAなり身体なりを構成する力そのものは、延長物体ではない。
延長物体である分子がその力を受けて人間身体の構成関係に入るのだから。
それは分子結合という化学的な電磁力でもない。電磁力には人間を構成する義理はないからね。人間に限らずDNAを含めいかなる個物であろうと、電磁力にはそれらを構成する義理はない。
それに電磁力は原因としての力ではなく、変化の結果に過ぎない。MKS単位系、つまり空間・質量・時間の組み合わせによって延長物体の運動変化の結果を電磁力として言い換えているに過ぎないんだな。
だから自然科学者は電磁力によって個物が構成されるプロセスを結果として解明することはできるだろうし、それは偉大な成果だと思うが、なぜ電磁力がその特定の個物を構成するのかという問いはない。はあ?仏教ですか?と言いそうである。
観念については省略したけど、同様の議論が成り立つから、その力は延長物体でも思惟様態でもない。延長物体や思惟様態がその力に服従して私の身体なり精神を構成するんだな。
で、スピノザはその力をコナトゥスと名付けている。
そして以上の説明から明らかなように、コナトゥスは延長物体や思惟様態という有限様態に対して私という構成関係に入るように原因として力を及ぼすわけだから、コナトゥス自体は有限様態ではないんだな。ここがポイントだ。では一体何か?
覚えておられるだろうが、スピノザの原因概念では、有限様態同士は活動原因だけど、実体と様態の関係では流出原因となる。
そしてコナトゥスが有限様態ではない以上、その力としての原因とは流出原因なのだ。言い換えれば神=実体の自己原因の力そのものなんだな。
だけど、人間は有限様態だから死ぬんだぜ、って思うよな。私もそう思った。
だがしかし、その有限様態は上に説明したように、私という構成関係に入る原子分子という個物に過ぎないのであって、私を構成する力ではない。
スピノザによるとそれらの原子分子という個物が、外部の力によって私という構成関係からすべて離れてしまっても、つまり生物的に解体して死亡しても、私という構成関係を維持しようとする力がなくなるわけではない。なぜならそれは有限様態同士の活動原因ではなく、流出原因として自己原因の一部だから、つまり永遠無限の神の一部だからというのである。
つまり人間は死ねば消えてなくなるというのは、構成される素材を構成する力と区別せず、両者を混同しているわけだ。
この混同は根強い。私も「エチカ」を読むまでは、自分とは自分の身体だと思い込んでいた。だけどそれは構成された結果のみを見ている表象知であって、構成する原因を知らない、つまりスピノザの言う理性知ではない。
まあ、ちょっと神がかり的ではあるんだけど、少なくとも自分を構成する力とは何かと考えると、簡単に答えがみつからないのは確かだ。原子分子にせよ、電磁力にせよ、私という構成関係に凝集せよと強制する力はない。
確かにそれらは偶然によって絡まり合っているんだとも言える。だが、単なる絡まりであるなら、今現在の私という構成関係に他の分子が参加してくる必然性は何もないはずだ。偶然による絡まりでは、この構成関係を維持し続けようとする力を説明できない。
空間の捻れとしての重力でもない。分子が私の構成関係に入るときは、一定の秩序に基づいているのだから。一様に接近しているわけではない。
例えば毒物の分子はむしろ私の構成関係に参加している他の分子を離脱させる結果をもたらす。したがって、この凝集という強制力には選別としての特異性がある。偶然かつ無差異の凝集であるなら、何やら得体のしれない塊になるだけである。
神秘であるのは、ある特定のアミノ酸という個物の構成関係が私の構成関係に調和的に従属するのに対し、毒物の構成関係は私のそれとは調和しないということである。科学者は分子結合の配列を分類して説明したと思い込んでいるが、それは調和・排斥という結果を分子結合という結果に置き換えているだけであって、つまり結果を結果によって説明しているだけであって、調和・排斥という出来事の原因自体を解明しているのではない。
スピノザは定義・定理によって、その強制力がコナトゥスであり神の本質に含まれると論証している。高齢とはいえ私は信心深くはないので、すぐに首肯できかねるが、しかし、コナトゥスの概念には畏敬の念を覚える。
その意味合いをアリストテレスや中世神学や自然科学などと比較して、さらに探究してみたい。
そして賢明なスピノザ愛好者ならすぐに思いが及ぶだろうけど、それは私に限らず、すべての個体にも当てはまることだ。白血球にもウィルスにもスピノザが好きだった蜘蛛にも、それぞれ自らの個体を構成する力としてコナトゥスがある。それは自然全体を構成するコナトゥスの一部である。構成された素材である延長物体同士では闘争というか、有限様態同士の活動原因としての因果連鎖があり、それにより悪と破壊と死が表象されるが、構成する力それ自体は流出原因として神の永遠の本質に含まれる。構成された身体が原因を知らない表象であるのと同様、その解体である死もまた表象なのだ。
スピノザは「エチカ」第四部定理67において「理性の指図のみに従って生活する人は、死に対する恐怖に支配されない」としているが、それは死が表象知であって原因を知る理性知ではないからだ。そしてその人が自由であるのは自由意志によるものではなく、核やテロなど死を支配の手段とする権力者に屈しないという意味である。
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