本当は〇〇しなくちゃいけないんですけど…

整体院にいらっしゃるお客さんと話していると
この言葉がしょっちゅう出てくる人がいます。

お客さんのお体を把握するために
施術しながら質問することも多く
例えば、
ふくらはぎに筋肉を感じない場合
「日常歩きますか?」や
僧帽筋がかなり発達していて
硬くなってる人に
「剣道か水泳やってましたか?」などです。

こちらにとっては
お体を把握するための質問なのですが、中には責められてると思うのか、
「普段、運動などされますか?」
「本当は運動しなくちゃいけないんですけどたまに歩くくらいです」

「階段の昇降辛いですか?」
「本当は階段で上がらなくちゃと思うんですけど、本当は痩せなくちゃいけないんですけど、重くてエスカレーターに乗ります」

などなど
前置きしてから実情を話す人は意外に多いです。

質問の仕方が悪くて
プレッシャーかけているんかなあ?と思って
タイミングを見て
なるべくあっさりと聞くように
するのですが
どうもそうではなく
癖のように使う人がいます。

世間一般の主流みたいなものに対しての前置き程度なら
まあそんなに問題でもないと思いますが、
「本当は〇〇しなくちゃいけないんですけど」が枕詞になっている方は、ちょっと気になります。

ある日
余りにも多用する方とお話していたら、その方はお母様の影響が
物凄く強いということがわかりました。
小さい頃に遡って
こんなことを言われた
こうしなさい、と言われた
というお話が
次から次へとその方の口から
湧いてきました。

礼儀正しくて
幼少の頃から
お母様の意に添うように
キチンと育てられてきたご様子が
うかがえます。

それ自体、良いも悪いもないと思うのですが
自分の在り方と沿わないとき
「本当はこうでなくちゃいけないのに、今の私はできていないから、こうなんです」と
思いながら生きていくのは
何か勿体ないといいますか
しなくていい無理を頑張っている感じがして
身体も重いのではないかと
感じます。


少し自分の話をしますね。

私自身
今は亡き母から
「あんたは我慢が足りない」と
事ある毎に言われていました。

「お母さんは、自分の親が嫌だと思うことは一切しなかったわ」
と、叱られるときに
よくそう言われました。

振り返ってみますと
本当につまらないことでも
無駄な我慢をしてきたのですが
元々全く我慢のできないタチなので、かなり歳を取るまで
長らく自分を否定してきたことに
気がついていませんでした。

もちろん母の言葉だけで
そうなったわけではないのですが
小さい頃から言われていたことでもあるので
その言葉によって
知らぬ間に
自分の初期設定を
他者によって
「私は我慢の足りない子」と
書き換えられたまま
放置していたんだと
今は感じています。

思春期以降の私は
「もう、家族の中で
私だけがお母さんの気持ちの面倒をみるのはゴメンだわ!」と言って母を泣かせたこともありました。

母は昭和6年生まれでした。
多感な年頃に戦争になり
疎開していた広島から原爆投下のひと月前に愛媛に戻ってきたそうです。
確か14歳
今でいう中学生。
3歳下の妹と二人
汽車で愛媛に戻ってきた夜の駅で空襲警報が鳴り、そこで
不安な一夜を過ごしたそうです。

あれもしたい
これもしたい
たくさん遊んでたくさん食べたい

戦争のおかげで我慢と諦めることの多かった青春時代
5人兄妹の上から二番目の長女で
一番下の弟を、育てたと言っていいくらいの世話をしていた母。

とてもキツい性格の
お姑さんと上手くやるために
随分と言いたいことも我慢して
お金の苦労もしてきた母。

そんな母ですから
私を見て
「あんたは我慢が足りない」
そう言うのは
当然のことなのでした。

そして
時代も違えば立場も違う
性格も違う私は
我慢しなくていいのも
当然のことなのでした。

3年前に母が亡くなって葬式の日
全てが終わって
「疲れた〜!!」と
喪服のまま畳の上に
大の字になって脱力した私の上に

20代の娘二人が
それぞれ両側から
抱きつくように覆いかぶさって
来ました(笑)。
その温かい体温を感じながら
両胸に娘の頭を抱えて

「お母ちゃんは親だから
あんた達に、アレはダメだとか、
こうしなさい、とか
言うと思うけど
それは幸せになって欲しいからなんだよね。
何回でも同じことを
しつこく言うかもしれない。
でも、それを聞いて
自分は違うな、と思ったら
全然言うこと聞かなくていいんだからね。」

そう言うと
例えようもなく甘い声で
二人同時に
「うん」
とだけ返事してくれました。


親の言葉というのは
そんなふうに
良くも悪くも呪文のように
縛りを与えるものなのだと
そういうものだと思います。

そして多くの人が
自分の信じていることを
伝えたくなるものだと思います。

でも
全くそんなこと
おかまいなしに
自分で思うようにやっていいのです。
違うのが当たり前ですし
そもそも自分以外の人が決めたことを生きるのは不自然です(笑)。

自分にかけられた制限に気がついて、自分でリミッターを外す
そして自分と出逢い直す
それもまた、人生折り返し以降の
楽しみの一つといたします。

さて思わず長くなってしまいましたが
では矛盾によるストレスを受けとめた身体をどうするか。

私が気になるのは
余りにも自分以外の人の基準などを採用してきた人は
自分の望みを出す機会を逸して
自分でもどうしたいか、が
わからなくなってしまっていることです。

そうなると
どうしたいですか?と聞かれたときに
どうしたいか、が
すぐに言えず
「この場合は、何て答えるのが正解なのか?」と悩んでしまいます。

こういうときは
頭で考えても
中々引き出せないものです。

そんなときは
何をしたら気持ちが良いか
何をしたら気分が良いか
どっちを食べたらより美味しいか
風呂に入りたいか眠りたいか
どっちの匂いが好きか

毎日の中で五感を使って
ひとつひとつ
コツコツと確認していくと
少しずつ少しずつ
取り戻していけると思います。


整体を受ける中で
身体と対話をして
少しずつ取り戻していく人も
たくさん見てきました。
痛みや気持ち良さを感じて
軽くなると心も軽くなります。


私が正解や方向を示すことはありませんが
身体との対話のお手伝いをすることはできると思っています。

そこで
施術者は
自分が解決してあげられる、と
勘違いしないことです。
そして受け手も
ここに来れば何とかしてもらえる、と思わないことです。

依存させて
お客様をロックオンして
通わせている同業者を
まあまあたくさん見てきました。
はっきり申し上げて
そういう人は支配欲を隠し持っていると感じます。
要するに自分のためにやっているわけです。


その人だけが持っている
好きなものや心地よいもの
その人らしさの宝は
とても神聖なもので
手を出してはいけない領域です。

時間がかかっても
それが立ち上ってくるのを
足並み揃えて待つとはなしに
待つくらいが
せいぜい私達に
できることなのだと思います。










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