21/07/18 世界による価値観の押し付け、あるいは正解のピンポンについて

…って何かというと、アニメとかでよくある「問題が解決すると晴れる演出」のことです。

主に心理面でのモヤモヤなどの問題が存在している間は雨が降って画面は暗くて音楽も暗かったのが、そのモヤモヤを突破して問題が解決へ向かうと雲が晴れて光差し込み音楽も元気よくなる、みたいな演出。ありますよね。

去年の秋頃だったかな、それについて考えたことがあったんですよ。
ラブライブ虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のアニメを見ていて、しずくちゃんの回のとき。この回が個人的にメチャクチャ好きだったんですよね。
で、この回なんですが、考えてみると割と分かりやすく1個上の段落に書いたような「モヤモヤと決定的な一言によるそこからのブレイクスルー」がある構成だったにも関わらず雨が降ったり晴れたりしなかったなと。そして、自分がそれを快く感じていることに気づいたんです。

「そういう演出である」という前提を一旦脇において考えてみたい。

なんというか、地面ばっかり映ってたのが晴れやかな空が映るようになるのは「前向きになった」とか「広い視野で物を見られるようになった」という表現だと納得できるんですよ。実際アップアップになってるときは空を見られなくなるとか現実でもありますし。BGMにいたってはそもそも作中世界では鳴ってないですし、元気な曲になるのも納得できる。

でも、天気って別に人間ひとりの心理的なモヤモヤが晴れたとて本来は関係ないわけじゃないですか。別に僕の悩みごとが解決しても雨はやまない。空は晴れない。
それが作中世界では晴れるということがある。
なんだか、そこに作為的なものというか、「世界による価値観の押し付け」みたいなものを感じてしまうんですよね。作中の世界には「正解」があって、正しい価値観に向かってその正解にたどり着くと、まるでピンポーンと正解音がするかのように世界の側から正解サインが出される。かなり極端な話をしちゃいましたけど、そんな印象を抱いてしまうことがあるんですよ。

「正解の価値観」にピンポンが鳴るということは当然その世界には「不正解の価値観」も存在することになるわけで。
割と「いいお話」の軸となる価値観――友達はいたほうがいい、夢はあきらめない方がいい、自分はさらけ出したほうがいい――みたいなものってある程度共通していて、お話を見ていると無意識にメタ読みをしてしまうことがあります。そのメタ読みを裏切られると「あ、この話おもしろいな!」と思います。
でもその価値観に世界レベルでピンポンを鳴らしてしまうと、友達がいないことは間違いで、世界はそれを認めませんよ、というふうにも取れてしまうんじゃないかな…と。

ラブライブ虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のアニメは終始多様性を大事にしている印象がありました。何度かあるみんな意見を出し合うシーンで「全員が納得するひとつの着地点を探す」のでなく「みんな勝手に自分のやりたいことを言うだけ」なのとかめちゃくちゃ好き。そしてこの多様性を尊重することが表現レベルで実装され、心地よさにつながっていたのではないかと思います。
一方でパウロ・コエーリョの『アルケミスト』という名作小説には「何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」という表現があって、実際に「世界が応える」描写がたくさんあり、これもすごく好きだったりします。
世界ピンポンがあったほうがいい、なかったほうがいい、という話ではなく、「手癖でやってしまいがちだけど、こうした『世界が動く』表現はかなり強いメッセージを持ってしまうことを意識して使ったほうがいいんじゃないか」ということを考えた…という話でした。